新選組『真相 池田屋事件』生存者が見た!NHK 歴史探偵 サムライドシミュレーションでも検証

大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれた「池田屋事件」。

新撰組・近藤勇や沖田総司らの斬り合いののち、遅れてやってきた、町田啓太さん演ずる土方歳三の殺陣が際立っていましたね。

『青天を衝け』では、この「池田屋事件」を命じたのは、禁裏御守衛総督の一橋慶喜だという噂が流れ、平岡円四郎が慶喜を惑わせていると水戸藩士の林・江幡らが誤解します。

その「池田屋事件」とは、具体的にどのような事件だったのでしょうか?

NHK『歴史探偵』『真相!池田屋事件』

先日、NHKの『歴史探偵』という番組で『真相 池田屋事件』が放送されたので、この機会に、池田屋事件についてを書いてみたいと思います。

『歴史探偵』という番組は、パイロット版での「黒船来航」や「本能寺の変」「明智光秀の城」などの放送を経て、2021年4月期(3月31日)から、NHK総合で放送が始まりました。第一回の放送は、「参勤交代」です。

俳優の佐藤二朗さんを中心に結成された探偵社が歴史の真相を探る番組です。放送日は、NHK総合で毎週・水曜22時30分からです。(再放送・毎週金曜 午前0時52分(木曜深夜)、毎週金曜 午後3時10分)

NHKでは、『その時歴史が動いた』や『歴史秘話ヒストリア』など、過去に面白い歴史を題材にした番組がありました。この『歴史探偵』も様々な角度から、わかりやすく、歴史の真相を探っていくという、なかなか面白い番組です。

探偵所長の佐藤二朗さん、副所長の渡邊佐和子アナウンサー、探偵の青井実アナウンサー、森田洋平アナウンサー、石橋亜紗アナウンサーが様々な角度や切り口から、歴史の事件の真相を解明していくという構成になっています。

それでは、5月12日に放送された『真相・池田屋事件』を振り返ってみたいと思います。

新選組の『池田屋事件』といえば、新選組の隊士たちと、浪士たちが激しく斬り合い、新選組がバッタバッタと相手を倒していくという時代劇の王道のようなイメージがありますよね。

でも、近年、そんな池田屋のイメージを覆す新たな史料が見つかっているということなんです。そして、『歴史探偵』でも池田屋の真実について、探っていきます。




新選組に襲撃された被害者側、生存者による池田屋事件

『歴史探偵』では、池田屋事件の新たな事件像に迫ります。

池田屋というのは、京都の旅籠です。そんな旅籠を襲撃するのに、どうして、大砲などが用意されていたの?という謎。

もしかしたら、池田屋事件の襲撃というのは、新選組による単なる襲撃事件ではなく、実は、もっと大きなストーリーの一部なのではないのか? ということ。

今回は、幕末の動乱を決定づけた池田屋事件の真相について迫ります。




従来の池田屋事件のイメージとは、簡単に

幕末の京都で、治安維持を担当していた新選組。

時は幕末。黒船が来航して、日本は揺れ動いていました。

長州派は、直ちに外国を追い払えと過激に訴えていた過激な集団です。

幕府を脅かす恐ろしいテロを計画していたと言います。これを阻止すべく現れたのが新選組!

長州派が密会する場所を突き止めました。それこそが池田屋 !

実は、この時、突撃した新選組の隊士は、たったの4人だったとのこと。それに対し、待ち受けていたのがたくさんの人数の長州派。簡単に倒せるとは思えません。

しかし、そんな大勢の長州派が相手でも、剣豪揃いの新選組! 敵を次々と倒して、大勝利を収めます。

でも、これって、真実なのでしょうか? 本当に、池田屋の中では、何が起きていたのでしょうか?




『時代劇の定番は真実か 池田屋事件を探れ』

池田屋があった場所は、京都市中京区です。

池田騒動之趾(いけだやそうどうのあと)という石碑が立っています。

池田屋事件の跡地は、現在は、『池田屋』という居酒屋になっています。私も行ったことがありますが、歴史が好きな人にはたまりませんよね。

『歴史探偵』に登場したのは、京都市にある霊山歴史館。ここには、幕末や維新に関するさまざまな資料があります。館内にも池田屋事件の模型や、事件の様子を再現した模型があります。

実は、この池田屋事件が起こった時にいた長州派の人数は、わかってはおらず、現在でも謎につつまれているとのこと。

この霊山歴史館で発行されている「維新の道」という広報誌に、池田屋事件の生存者という資料が載っています。その史料を見つけられた歴史研究家の方のインタビューがありました。

その史料は、和田義亮(わだよしすけ)という人の履歴書。履歴書というと今でいう自伝のようなもの。和田という人物が晩年に書き残したと考えられています。和田は、長州派として活動していた幕末の志士。つまり池田屋事件の被害者なんです。この履歴書は、長年、京都大学の図書館に保管されていたものを発表されました。(『尊攘(堂)志士履歴書』)

実は、浪士の中には、刀を持っておらず、戦えないものもいたということなんです。実は、池田屋事件の被害者側の史料は、今まであまり注目されたことはなかったということなんです。

最近になって、こういう史料は、よく出てくるようになったそうです。

他にも被害者側の史料はないかと、番組が調査したら、今から11年前に、高知県で発表されたものがありました。土佐藩が残した池田屋事件の調査報告書が見つかったのです。

そこに、びっしりと書き込まれていたのは、長州派の亡くなった人数です。新選組の記録では、七人を討ち取ったとありますが、こちらの史料には、死者は五人とあります。

土佐藩の資料では、はしごの下に一人、離座敷に一人など、場所まで事細かに書かれていたのです。




『新選組・池田屋事件 食い違う証言のワケ』

新選組と被害者側の史料の食い違いが見られます。一体、信憑性が高いのはどちらの言い分なのでしょうか。『歴史探偵』では、歴史研究家の方にインタビューをしています。それによると、重要なのは、それぞれの史料がどんな状況で書かれたかということと述べています。

新選組の局長である近藤勇の手紙には、池田屋事件の戦闘時間は、2時間。新選組が討ち取った長州派の人数は、7人とあります。近藤勇は、事件の直後に、池田屋の様子を詳細に書き残しています。近藤の手紙は、事件直後のものでは、ありますが、政府に提出するような報告書ではなく、事実よりも大げさめに書くということもあり得ます。また、わかりやすく省略することもありえるとのことです。

長州や土佐側の史料は、事実をきちんと国許に伝える責任があり、そういう意味でも長州側・土佐側の史料価値の方が、この件に関しては高いと思われるとのこと。

そんな被害者側の史料を辿れば、新たな「池田屋事件」の姿が見えてきそうです。

また、事件の後に、池田屋の女中さんの記録というのも残っていて、その記録にも五人という記録が残っていて、長州や土佐側の記録と一致しています。

近年では、5人が定説になっているとのこと。




『新選組・池田屋事件 真実は被害者の証言?』

多摩大学・客員教授(日本史)河合敦先生の話によると、新選組の資料の方は、池田屋にいた人たちの表現がかなりアバウトだということことです。「長州人」とか、「徒党を組んだ者」という曖昧な言葉で表現されています。それに対して、長州の記録によると、長州藩士以外にも町人のような人たちがいたことなど、具体性に富んでいる表現が見られるらしく、両者を比べた場合、どちらかというと長州派の方が信憑性が高いとのことなんです。

すると「なぜ、長州派の記録が注目されなかったのか?」ということですが、それには、やはり、世の中の新選組が人気が絶大であるということ。

これは、ドラマや小説の影響で、新選組がヒーロー視されているためだそうです。

それが見直されたきっかけは、2004年のNHK大河ドラマ『新選組!』(三谷幸喜・脚本)が放映されたことがきっかけ。世間でも『新選組』が話題になり、専門の研究者たちも、やっぱり新選組をもっと研究しようという動きになり、そこから、池田屋事件の研究、長州派の研究も進んだということだそうです。




『池田屋事件の真相』をサムライド シミュレーションで徹底検証

『歴史探偵』では、池田屋の内部で何が起きていたのか、徹底検証をしていました。

番組では、コンピューターの中にサムライにあたるものが入ったサムライドというシミュレーションが登場。このシミュレーションと最新の研究成果をもとに、池田屋事件の真実に迫ります。

現在わかっている情報は、新選組が4人で突入、長州派の死者が5人ということ。

長州派が何人いたのかは諸説あり、謎に包まれています。今回は、その長州派の人数の解明に焦点を当てていきます。

新選組の記録では、長州派は、20人(浪士文久報告記事)

一方、別の資料では、土佐藩の史料には、11人(山内家文書 『豊範公記八巻)

両者の史料では、およそ倍ぐらいの誤差があります。

長州派が何人の場合、池田屋事件における死者が5人になるのかという、史実と同じ結果になりやすいのかを調べていきます。




『池田屋! ベストテン サムライド・シミュレーション結果発表』

このサムライドのシミュレーション結果が興味深いものでした。

番組では、長州派の死者が5人という結果の出やすい条件を検証。(他にも逃亡者、捕縛者の数なども考慮)その結果になるもの、その確率になるもの、その確率の高いベスト10を割り出していました。

このシミュレーションをどのように行ったかというと、それぞれの戦意を入れて、割り出します。

戦意とは、『猛烈・敵三人に向かう』『慎重 敵がいない(味方が多い)場所に向かう』『勇敢・猛烈と慎重の間』。襲撃した側の新選組は、猛烈・または、勇敢になりますが、不意を打たれ、襲われた長州派の側は、全て「慎重」になります。

そこで、『歴史探偵』では、ベスト3までを割り出してみると、

1位

11人 猛烈・慎重 (増援到着時間)15分 (戦闘時間)50.6分 40%

2位

11人 猛烈、慎重 (増援到着時間)30分 (戦闘時間)59.3分 37%

3位

11人、勇敢、慎重 (増援到着時間)15分 (戦闘時間)39.8分 33%

という結果になりました。右側の%は、歴史通りとなる確率についてです。

新選組は、武士に限らず、農民や町人など、雑多な集団から構成されています。そのように、身分を問わずに募集されたこともあり、その集団を統制するためには、大変、厳しい掟がありました。戦いの際に、敵に背を見せたら、「切腹」というものがあったり、そういう背景からも、新選組が「猛烈、勇敢」に切り込んでいったのではないだろうかと、想像されます。

そして、このような真摯さが、新選組の人気なのかもしれません。

ちなみに、新選組の史料にある長州勢が20人でシミュレーションした場合、なんと、新選組が全滅してしまうという結果になりました。




『新選組・池田屋事件 生存者・被害者目線でドラマ化』

『歴史探偵』では、シミュレーションの結果と、長州側の史料を全て入れ込んで、新しい池田屋ドラマを制作。生き残った大沢逸平(別名・和田義亮)の目線で描いた新しいドラマを作られていました。大沢逸平(別名・和田義亮)とは、先ほどの履歴書の方ですね。

撮影は、彦根市にある撮影所で行われました。幕末の京都の町並みを再現し、大沢の証言に合うよう池田屋の内部を再現します。そして、史料に沿って、主人公の動きを検証します。大沢逸平が見た「池田屋の真相」とは、どのようなものだったのでしょうか?

再現ドラマを振り返ってみます。

時は、幕末。元治元年 六月五日 京都・三条 夜のこと。

私は、大沢逸平。長州のために奔走している幕末の志士だ。

ある日、仲間に呼ばれて池田屋に向かった。

仲間内では、古高俊太郎が新選組に捕らえられ、そのことも気がかりだった。

私は、いつものように階段の脇に大刀を置き、二階に上がろうとした。(元治甲子長州附属諸国脱走変名大略)すると、仲間が呼ぶ声がする。

一階か。私は、一階の間へと足を踏み入れた。実は、この日、長州派は、一階と二階、バラバラで集まっていて、一つの会合ではなかったのだ。

私が参加した会合の内容は、活動費のことだった。町人から、三百両を借りることなどが話し合われた。皆、古高のことも気がかりだったが、金の話がまとまったこともあって、飲み始めた。後世では、テロの相談とは言われていたようであるが、その時、我々が話していたのは、そんな金の工面の話だった。

しかし、知らず知らずの間に魔の手が、そう、新選組が我らに忍び寄ってきていたのであった。

彼らの動きは、静かだった。知らぬ間に、池田屋の中に入り込み、長州派の志士たちが、階段の脇に置いていた大刀を回収してしまったのだ。なんたる用意周到なこと!

そして、新選組の一派は、二階に上がっていき、大声をあげた。「御用改めである!!!」

そのようなこともあり、長州派の多くは、大刀を携えておらず、腰に差した小さな刀で戦ったり、そもそも刀を持っていないものもいたのだ。

その頃、我々は、まだ二階の様子には、気がついていなかった。上は賑やかだな。おそらく因州(鳥取)の仲間たちが来たんだろう。そう思っていた。

その時、旅籠の人間が、賊がきたことを知らせに来た!

「なんと!」

我々の大刀は、すでに、新選組に奪われてしまっていた。私は、仲間たちと身を隠すことにした。仲間たちが縁の下に潜り込み、私は、壁際に身をひそめることにした。新選組の隊士がやってきて、あたりをうろうろし始めた。執拗に、誰かいないかを探している。私は、生きた心地がしなかったが、じっと息を潜めていた。やがて、新選組の気配が消えた。誰も見つからず、ほっと息をついた。

「もういないか、ちょっと見てくる」

仲間の一人が様子を見に行った時だ。「ここにいたのか!」新選組に見つかった仲間が捕まった。それを見て、憤った私は、持っていた小刀を思わず、敵の中に投げ入れてしまった。敵が私が潜んでいることに気づいた! 「ここで死んではならぬ!」そう思い、私は、とっさに風呂場に逃げ込んだ。敵の足跡が忍び寄ってくる。「どこだ」「どこにいるんだ」もはや、これまで。万事休す。私は、覚悟を決めた。

すると、「まだ他にもあるぞ! 行こう」という声がし、新選組は、池田屋から、引き上げていったのだ。

私は、その夜を風呂場で、過ごし、なんとか生き延びたのであった。




『真相 池田屋事件 新選組の謎の行動』

実は、新選組の狙いは、池田屋襲撃では、なかったということなのです。ある意外な狙いがあったことがわかりました。それは、新選組の池田屋事件の後に取ったある意外な行動にあります。

その様子が会津藩の史料に残されています。(『会津藩庁記録』)

新選組は、池田屋事件の直後、祇園・大仏あたりまで駆け回り、翌朝5時頃(現代の8時)から少しずつ、引き取りました。つまり、池田屋を去った後、朝まで、京都の町の捜索を続けていたのです。

その捜索が及んだと見られる場所は、20箇所以上。しかもテロとは、無関係に見える町人まで逮捕していたということです。こうした行動にはある事情があったようです。

事件前、新選組が掴んでいたテロの情報は、「京都で焼撃(やきうち)がある」といった曖昧なものでした。誰が中心になって、いつ実行するかといった犯人を特定するような情報を、新選組は掴んでいませんでした。




『真相 池田屋事件』真の狙いは、長州のせん滅

実は、新選組が狙ったのは、「池田屋」だけではなく、「長州に味方するもの全て」においてだったと言われています。これは、京都における長州勢力の排除や根絶やしを狙ったということだそうです。

この頃、京都では、異国への対応を巡って、長州藩と会津藩が激しい対立を繰り広げていました。

しかし、長州藩と会津藩が実際に戦うことはなかったのです。それは、どの藩もそうだということですが、藩同士で対立するのを避けたかったというのが理由です。事なかれ主義で、事件性を帯びることを嫌がったそう。

しかし、この微妙な均衡を破ったのが新選組。

『会津藩庁記録』には、「池田屋事件の朝、新選組が来た。人を出して欲しいと申し出があった。池田屋事件の朝、会津藩に応援を要請 二度にわたる強いものであった」とあるそうです。

そして、歴史が動き始めます。

これは、会津が長州と全面戦争をする覚悟を決めた日だという風に位置付けられているそうです。

会津は、協議の末、長州との対決を決断。幕府側は、大砲や銃器を準備し始めたのです。

池田屋騒動だけに限ってしまうと、単なる斬り合いに見えるかもしれませんが、新選組がその扉を開いてしまったということなのです。

事件の一ヶ月後、抗議を名目に長州藩は、都へ兵を進めます。ついに避けていた武力衝突が起こったのです。(禁門の変)その後、内戦は、5年に渡り続きます。

「池田屋事件」、それは、明治維新へと続く戦いを引き起こした出来事だったのです。




『真相 池田屋事件 まとめ』

河合敦先生の話によると、池田屋事件の長州藩邸の動きも見事だったと言います。

自分たちの仲間が襲われているということで、長州は、助けに行きたかったが、長州藩邸のリーダーが門を完全に閉じて、その戦いに参加させなかった。それは、一方的にその新選組とか会津に長州は、やられたというそういう印象を与えることによって、ある程度、有利に運ぼうと考えていたのでは、ということ。会津・新選組が「悪」であるというイメージをつけようとしたのです。

ただ、長州も会津もどちらが悪いというわけではなく、両者とも、国を守るために活動をしていました。

この頃、幕末の日本で活躍したのは、若い志士たち。

池田屋事件の時点では、近藤勇・29歳 木戸孝允・30歳 坂本龍馬・28歳と幕末の有名な人物たちは、まだそんなに若かったのですね。

「池田屋事件」の他にも「近江屋事件」「寺田屋事件」など、「〜屋」がつく事件は、他にもありますが、いかがだったでしょうか、歴史上、最も人気のある集団といってもいい新選組の「池田屋事件」。

『新選組』は、近藤勇、土方歳三、沖田総司など、誰もが知っているスターが並びますよね。

ちなみに、探偵所長の佐藤二朗さんは、「美形がキャスティングされる沖田総司の役は、俺には来ない!」と言っていたのが、面白かったです。

NHK『歴史探偵』では、この他にも「平安京ダークサイド」「関ヶ原」「葛飾北斎」「飛鳥の八角形古墳」「長篠の戦い」「渋沢栄一inパリ万博」などが放送されています。本放送から一定期間、見逃し配信やオンデマンドなどで見られるものもあるので、興味のありそうなものを見てみるのも良いですね。また、6月2日には、「秦の始皇帝」の放送が予定されています。日本だけではなく、海外も捜査する「歴史探偵」が楽しみです。




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