梶原景時の乱とは? なぜ? 誰に殺された? 最期 死因 墓 寒川 子孫は? 頼朝の信頼 義経の讒言は? 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

こんにちは

本日は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも異彩を放っている梶原景時について、書きたいと思います。

スペシャルトークin寒川もあるようですね。

梶原景時は、どんな人? なぜ頼朝を助けた?

梶原景時は、保延6(1140)年に生まれたと言われています。梶原景清の次男になります。

母は、横山孝兼の娘です、梶原氏は、坂東八平氏の流れを汲んでいます。

北条時政が、保延4(1138)年生まれと言われているので、梶原景時は、北条義時というよりは、時政の親世代の年齢になりますね。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中でも時々、呼ばれていますが、平三(へいざ、もしくは、へいぞう)という別名がありますよ。

梶原氏は、元々は、源氏に仕えていたのですが、平治の乱(1160年)で、源頼朝の父、源義朝が討死にした後、平氏に仕えるようになります。

時は流れ、伊豆に流された頼朝は、治承4(1180)年に平家追悼のため、伊豆で挙兵します。

伊豆国目代である山木兼隆を殺害した頼朝を梶原景時と大庭景親は、頼朝を攻めます。大庭氏は、梶原氏と同族です。

この「石橋山の戦い」で頼朝は敗走します。山中の洞窟(しとどの窟(いわや))に逃れるのですが、梶原景時は、この洞窟に潜んでいる頼朝を見つけるのです。(しとどの窟は、現在の湯河原町にあります)

しかし、頼朝を突き出すどころか、見逃して、大庭景親には、頼朝がいなかったと伝えます。

大河ドラマ『13人の鎌倉殿』の中でもこのエピソードは、印象深く描かれていましたね。

このこともあり、梶原景時は、源頼朝に重用されることになるのです。坂東武士でありながら、教養も高く、和歌も詠んだという景時は、インテリな感じだったのでしょうか。




上総介広常の殺害 頼朝の信頼

その後、源頼朝は、安房国へと逃れます。そして、再度、鎌倉へ向かい、「富士川の戦い」で平維盛を討ち、大庭景親を処刑してしまいます。

一方、梶原景時は、頼朝の御家人となります。侍所の諸司という要職にも抜擢されます。

寿永2(1183)年には、源頼朝の元で、大きな力を持っていた上総介広常を殺害します。

このシーンは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中でも、非常に印象に残る回でした。双六をしていたところ、上総介広常を殺す景時。

以降、梶原景時は、ますます頼朝の信頼を経て、力をつけていきます。




梶原景時と義経 源頼朝への讒言とは?

梶原景時は、その後も源頼朝に重用されて、平家攻めの際には、土肥実平とともに軍奉行に任じられています。

頼朝の名代としては、頼朝の弟にあたる範頼と義経がいたのですが、実平が範頼と組んでうまく行ったのと、裏腹に、景時は、義経と性格が合わないのか、ことごとく対立します。

特に、「屋島の合戦」で、意見が合わなかったことは、有名です。

以後、梶原景時は、頼朝に対して、義経のことを悪く伝えるようになったとされています。

このように、義経と頼朝の対立や、義経の悲劇的な最期は、梶原景時が影響していると、後世に伝えられるようになるのです。

私が梶原景時という人物を初めて知ったのは、小学生の頃に読んだ『源義経』という子供向けの読み物でした。そこには、義経と頼朝は、仲の良い兄弟であったのに、景時がいろいろと、義経の悪口を頼朝に吹き込んだので、頼朝が怒ったというように書かれていました。

当時、小学生だった私は、もちろん義経に肩入れをしていたので、梶原景時が大嫌いになってしまったのです。実際には、そんなに単純な話ではないのですね。

子供向けの本なので、そんなふうに、ざっくり書かれていたのかなと思いましたが、以前は、判官贔屓という言葉からも、義経の人気が高く、景時は、悪役のイメージで言われることが多かったようです。

最近は、教養のある能力の高い優れた人物であったということが言われてきているようです。

梶原景時だけではなく、歴史上で、「悪役」とされている人物の評価が見直されてきている風潮がありますね。




梶原景時の乱(梶原景時の変)とは?

その後の景時は、建久3(1192)年、景時は和田義盛に代わって侍所別当を就任し、頼朝からいよいよ重んじられるようになります。

そして、正治元(1199)年に頼朝が亡くなります。頼朝の死後は、二代将軍に源頼家が就きます。実は、景時は、頼家の乳母の夫なんです。ということもあり、景時は、引き続き力を持ちます。

頼家が即位してから、わずか3ヶ月後、まだ若い頼家の補佐を名目に、御家人たちは、13人の合議制を敷き、梶原景時もこの一員となります。

その中で、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」というのです。これは、頼家のことを批判する発言と受け取った景時は、頼家に報告、結城朝光を処分させようとしましたが、景時に反発する御家人が続出。

実は、この時、阿波局が結城朝光に景時のことを伝えます。阿波局といえば、時政の娘で、 義時・政子の妹! 朝光は、三浦義村に助けを求めます。これにより、景時は、和田義盛らをはじめとする、なんと、66名もの御家人に署名された弾劾状をより頼家に提出されてしまうのです。

これは、大河ドラマ『13人の鎌倉殿』でどう描かれるのか、今から楽しみですよね。

景時は、これについて、一切の申し開きはしなかったと言われています。

これにより、景時は、鎌倉から去ることになります。相模国一宮へと退きます。




梶原景時は、誰に殺された? 死因・最期・墓・子孫は?

1200年(正治2)年、梶原景時は、相模国一ノ宮から、一族で西へ向かいます。

その途中、駿河国で、襲撃を受け、合戦になります。

この戦いで、子孫となる梶原景時の息子たちも討死。

翌日には、一族、33人の首が街道沿いに晒されることになったのです。

梶原景時の墓は、鎌倉の深沢小学校の敷地内にあります。

深沢小学校の裏にやぐらがあり、4基の五輪塔があります。

鎌倉駅から、江ノ電バスで、藤沢行き、深沢小学校下車徒歩2分の立地です。




梶原景時は、大河ドラマに何回登場している?

さて、では、梶原景時が、大河ドラマに登場したのは、何回ぐらいでしょうか?

少なそうですよね、戦国時代や幕末と比べて、そんなに描かれたことがないのでは? と、思っていたら、3回の登場でした。1979年の『草燃える』、2005年の『義経』、そして、『鎌倉殿の13人』です。さらに、NHKの水曜時代劇『武蔵坊弁慶』(1986年放送)にも登場しています。

思ったよりも、多いかもしれませんね。

演じられている俳優さんも、いつも一癖も二癖もある名俳優さんが多いです。

『草燃える』では、江原真二郎さんが、『義経』では、中尾彬さんが、『武蔵坊弁慶』では、石田太郎さん、そして、今回の『鎌倉殿の13人』では、言わずと知れた中村獅童さんです!

いかがでしょうか。どの俳優さんも中年〜壮年のベテランで、独特の持ち味を持っておられる方が多いですよね。




梶原景時は、歌舞伎役者・中村獅童さん

さて、今回の梶原景時役の中村獅童さんと大河ドラマの関係を見てみましょう。

中村獅童さんは、大河ドラマになんと、7回も出演しているんです。

まずは、1989年の『春日局』。この時、まだ17歳なのですね。早くから、出演されていたんですね。

その次が、1997年の『毛利元就』の尼子義久役です。(余談ですが、尼子義久は、4630万円で一躍、話題になった山口県阿武町にゆかりのある武将でもあります)

2003年には、『武蔵MUSASHI}で徳川秀忠を演じられています。

さて、その後は、さらに重要な役を演じられています!

私が一番印象に残っているのは、なんと言っても『新選組!」(2004年)の滝本捨助役です。この捨助というのは、モデルは、いるものの架空の人物なんです。それなのに、ドラマを盛り上げてくれる非常に重要な役回りで、この捨助のキャラクターが、ドラマの面白さの一翼を担ったと言っても過言ではありませんね。この時は、土方歳三役の山本耕史さんとの掛け合いが面白かったですが、今回のドラマでも三浦義村の山本耕史さんとの絡みがないかと、いつも期待してしまうぐらいです。

そして、捨助というコミカルな役だけではなく、『八重の桜』(2013年)の佐川官兵衛役は、本当に見事で、素晴らしかったです。『いだてん〜東京オリムピック噺』(2019年)では、主人公金栗四三の兄、実次を演じました。一番上のお兄さんという役柄でしたが、実質、お父さんのような役でもありましたね。

大河ドラマによく出られる俳優さんは、同じような役柄を演じられることが多いですが、中村獅童さんのように、こんなにイメージが様々な、多彩な役柄を演じられる俳優さんは、そうはいないのではないかなと思います。




今後も楽しみな『鎌倉殿の13人』の梶原景時

梶原景時の今後や、最期にも、北条氏が関わっているという見方があるようで、これからの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』での梶原景時の描かれ方が楽しみですね。




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