渋沢栄一とパリ万博 日本の出品、展示品は、ジャポニズム? 徳川幕府VS薩摩藩 600万ドル借款計画とは? NHK『英雄たちの選択』 大河ドラマ『青天を衝け』

大河ドラマ『青天を衝け』でも、徳川使節団がパリ万博へと参加しました。

パリ万博の一行のメンバーに選ばれた渋沢栄一は、胸がぐるぐるするほど、おかしろくて、たまらないという気持ちで、初めて見る西洋に驚いていましたね。

大河ドラマ『青天を衝け』のパリ編は、VFX技術を駆使して、本当に当時のパリで撮影したかのような映像になっていて、臨場感たっぷりですよね。

1867年に開かれたパリ万博。現在、その跡地には、エッフェル塔が建っています。

そんな華やかな1867年のパリ万博の裏で、徳川幕府が万博に参加した二つの大きな目的がありました。

NHK『英雄たちの選択』では、徳川慶喜の選択とともに、パリ万博の背景に迫ります。

パリ万博と江戸幕府

慶応3(1867)年に開催されたパリ万博。世界中から、その国の特産品や技術力を展示し、アピールするという世界的な大イベントです。

このイベントに日本も初参加をすることになりました。徳川幕府は、使節団を結成し、派遣することにします。

将軍・徳川慶喜が自ら名代に選んだのは、弟である徳川昭武でした。

慶喜は、渡欧する前に、昭武に陣羽織を贈りました。(緋羅紗地三葉葵紋陣羽織・ひらしゃじみつばあおいもんじんばおり)陣羽織とは、武将が戦の時に身につけるものです。昭武のフランスでの成功を願う慶喜の願い。そして、重要な外交の場面には、この陣羽織を着て臨んだという昭武の覚悟や兄への想いが伝わってくるようです。

実は、この使節団の使命は、華やかな万博の視察をすることだけではありません。それ以外にも使命があったのです。

それは、幕府の命運を握るという重大な任務で密命でした。まさに幕末のミッション・インポッシブルですね。

その内容は、『600万ドル借款計画』というもの。江戸幕府は、600万ドルをフランスより借り入れて、その資金で軍事力を整備して、薩長を討とうという計画があったのです。

慶応3(1867)年、江戸幕府は、薩長に軍事的に勝てないという状況を迎えていました。

また、その前年の12月に、徳川慶喜と関係が良かった孝明天皇が亡くなったことも不運でした。

慶喜は、天皇が変わっても、「国のトップは、幕府であり、将軍である」という諸外国からのお墨付きが欲しかったのです。それには、フランスからの評価が必要でした。

「万博外交」は、非常に重要だったのです。




パリ万博はいつ? パリ万博の日本の出品 展示品は、ジャポニズム?

パリ万博は、1867年4月1日〜10月31日までの7ヶ月間、フランス・パリで行われた国際博覧会です。

パリ万博の参加国は、42か国、7ヶ月の期間の来場者数は、1500万人という、世界的な大イベントでした。

様々な国のパビリオンを始め、開催国のフランスの水上エレベーター(水力を使って、21メートルの高さまでエレベーターが上昇)など、各国の最先端の工業力のアピールの場でもあります。

その中で日本人商人の清水卯三郎が出品した「日本の茶屋」。

日本から来た芸者がタバコをのみ、茶を振る舞うという、エキゾチックな内容で、注目を集めました。日本では、お馴染みのものでも、海外では、珍しかったのでしょうね。1日の来場者が1300人を超えるという人気ぶりでした。

日本(幕府)も屏風、刀、浮世絵などのさまざまな工芸品を展示し、グランプリを受賞。ジャポニズムの流れを呼び込みます。




江戸幕府の事情とフランスの事情

慶応2(1866)年、第二次長州征伐が行われました。この戦いで、幕府は、長州藩に事実上の敗北を喫します。敗因は、幕府側と長州側との圧倒的な武力の差でした。

実は、イギリスと友好関係にあった薩摩藩が、密かに最新鋭の武器をイギリスから購入して、長州藩に提供していたのです。

幕府は軍事力の増強に迫られることになります。

外国奉行や勘定奉行の要職を歴任した小栗上野介忠順は、数年前から軍事力増強の計画を着々と進めていました。

小栗の対薩長計画を支援したのは、駐日フランス公使のレオン・ロッシュです。実は、この背景には、フランスの危機的状況があ李ました。

当時、フランスでは、蚕の疫病が蔓延し、生糸の生産量の80%が減少してしまったのです。ヨーロッパの絹工業の中心だったフランスは大打撃を受けました。フランスは、生糸の新しい供給国を探そうと奔走していました。

ロッシュは、幕府と接近して、日本に生糸の安定的な供給を要望しました。当時、日本の生糸は、良質なことで、欧米から高い評価を受けていたのです。

日本の生糸の独占輸入を目論み幕府を支援しようとしたロッシュと、幕府の再興を目指すため、軍事力を強化しようとした小栗の計画が一致します。




600万ドル借款計画について

ちなみに、600万ドルを借款すると、どれぐらい軍備が増強できるのかという試算が、番組内でされていました。当時の軍艦が9万ドルということで、単純計算で、66隻。この時、薩摩藩は、6隻を所持ということです。かなり、上回ることができますね。

小栗とロッシュの計画は、この借款計画の窓口として、フランスに新たな会社を設立。ここで投資を募り、600万ドルを集め、幕府に貸し出すというもの。幕府は、その資金で、フランスから、武器や軍艦を購入。一方、フランスには、日本の生糸の独占輸入の権利を与えるといったものでした。

ロッシュは、フランスの外務大臣に報告しています。

日本政府の保護の下に置かれる会社の有利は、絶大なものがあるから、フランスにとっての日本は、イギリスにとっての清 言い換えればフランスの市場となるだろうとのこと。

英仏の経済戦争を背景に進められる小栗の幕府再生計画。

パリ万博使節団に託された密命が、「600万ドル借款」を具体的に成立させることでした。




パリ万博に行った人、メンバーは?

慶応3年(1867)3月、徳川幕府使節団は、パリに到着しました。

この徳川使節団ですが、代表を務める徳川昭武は、まだ15歳の少年でした。その昭武に随行したのが、水戸の藩士たちや幕臣たち。総勢33人が派遣されました。

メンバーの中には、渋沢栄一もいました。この時、渋沢栄一は、28歳。会計係権書記という役職です。

使節団のメンバーは、公務を担当する者たちと昭武のお世話係を中心に構成されていました。

外交担当者として、外国奉行の向山一履、外国奉行支配の杉浦愛蔵、田辺太一など。海外渡航経験がある新しい考え方の人が多いです。

昭武のお世話係としては、傅(もり)役の山高信離(のぶあきら)や水戸藩士で構成され、攘夷思想が強い人たちが多かったようです。

また奥医師の高松凌雲などがいました。

万博参加の目的の一つは、討幕の動きが盛んになるなか、まず、「日本国の主権が幕府にあること」をヨーロッパ諸国に示すことでした。

そして、「600万ドル借款を成立させること」です。

使節団は、まず、ナポレオン3世との謁見の場に向かいました。沿道は東洋からやってきた一行を一目見ようと見物人で埋め尽くされたそうです。衣冠束帯に身を包んだ昭武は、各国の国王や貴族から、大いに注目されました。

意気揚々と万博会場に向かう使節団ですが、そこで一行は驚くべき事態に直面します。




徳川幕府VS薩摩藩

なんと、日本の展示スペースに、堂々と薩摩の紋が掲げられていたのです。そこには、薩摩の展示品が所狭しと並べられていました。

そして、幕府が巨費を投じて制作した等身大の武者人形の前に、あたかも薩摩藩の展示物であるかのように薩摩の紋が置かれていました。

なんと、日本に割り当てられたスペースの3分の1が薩摩スペースとなっていたのです。

さらに、薩摩藩は、フランスの要人に配る勲章まで用意していたと言います。そこには、「薩摩琉球國」と記されていました。薩摩藩はあたかも、幕府から独立した国であるかのように、万博に参加していたのです。

徳川幕府使節団は、当然のごとく、薩摩藩に猛抗議し、議論を繰り広げます。

その際、交渉の場にいた使節団の一員、書記官の田辺太一がその顛末を記しています。田辺たちの必死の交渉により、薩摩側から次のような譲歩を勝ち取ります。

薩摩藩は、自らの藩のことを「グーベルマン 太守 薩摩」と名乗ると申し出ます。

幕府使節団は、「グーベルマン」を「藩」という意味と解釈し、これならば、薩摩藩は、独立国と思われないと考え、その申し出を受け入れることにしました。

しかし、これが致命的な失策となってしまったのです。

幕府と薩摩の話し合いの数日後、フランスの新聞は、一斉に、こう書きたてました。「徳川将軍は日本の皇帝ではなく、薩摩や他の大名と同等である」と。

「グーベルマン」は、英語で「ガバメント」。そう、政府という意味だったのです。

つまり薩摩藩は、独立した政府であり、幕府は、日本を統治していないと、受け止められてしまいました。

これにより、「日本国の主権が幕府にあることをヨーロッパ諸国に示す」という万博参加の第一の目的は大きく揺らいでしまったのです。

それは、また秘密の任務「600万ドル借款計画」を困難にするものでもありました。

ところで、薩摩藩は、なぜ幕府の機先を制することが出来たのでしょうか?

これには、イギリスに興味深い文書が残っていると言います。

イギリス外務省に送られた報告書には、「もし600万ドルの借款とフランスの貿易独占会社が成功すればイギリスに有害な結果となる」と書かれていました。

こんなことを書いて送ったのは、一体誰なのでしょうか。

報告者の名前は、アレキサンダー・シーボルト。長崎に来日したシーボルトの息子でした。

日本のイギリス公使館で通訳として働いていたアレキサンダー・シーボルトは、フランス語も堪能であったため、徳川幕府使節団の通訳として一行に加わっていたのです。

イギリスは、徳川幕府使節団にスパイを送り込み、そこで得た情報を薩摩藩に伝えていたというのです。

小栗忠順の「600万ドル借款計画」は、薩摩藩とイギリスの妨害の前にその成立が危ぶまれることとなってしまいました。

さらに、これは、薩摩藩の裏で働いていたモンブラン伯爵というベルギー人のシナリオ通りであったと言います。

薩摩藩士の五代友厚が、モンブランとかなり親しく、このプランを入念に練っていました。

実は、モンブランは、薩摩藩と同時に幕府にも自分を雇うように働きかけていたのです。しかし幕府は、モンブランのことを、怪しげな男だと思い、信用せずに雇いませんでした。モンブランはそこに恨みを抱き、幕府をやっつける画策をしたのです。

実際、これを聞くと、信用できなさそうですよね。

薩摩は、幕府がパリへ行く2ヶ月ぐらい前に、先乗りし、メディア操作も含め、色々と裏で準備をしていたのです。

そしてさらなる追い討ちが幕府に襲いかかります。

横浜居留地で発行されていた英字新聞「ジャパンタイムズ」に、極秘の計画であったはずの「600万ドル借款計画」が暴露されてしまったのです。

「フランスが、日本と生糸の独占契約を計画している」という情報は、イギリス本国に伝わり、英国議会で問題となりました。フランスが計画している日本の生糸の独占は自由な貿易を阻害するのではないかと。

実は、イギリスとフランスは、1860年に英仏通商条約を結び、互いに自由な貿易を保証していたのです。イギリスは、ただちにフランスに抗議しました。

このころ、フランスは外交政策の転換期にありました。メキシコ遠征の失敗から、フランスは対外交政策を切り替え、各国との協調を重視するムスティエ外務大臣が新たに就任したのです。

ムスティエ外務大臣は、駐日フランス公使ロッシュに訓令を発します。

これにより、600万ドル借款に不可欠であった日本の生糸の独占にストップがかかってしまったのでした。

「600万ドル借款」の計画は、完全に暗礁に乗り上げてしまいます。




徳川慶喜の選択・蝦夷地の鉱山開発権について

この報告が記される3ヶ月前 慶応3(1867)年4月のことです。

交渉が難航すると察知していたロッシュは、意見書を作成し、徳川慶喜に進言します。

そこには、「600万ドル借款計画」の起死回生の方法が記されていました。

「生糸の独占の権利を与える代わりに、蝦夷地の開発権をフランスに与えて欲しい」とありました。実は、この10年ほど前に、幕府は、函館の鉱山資源を調査し、資源の見込みありとの情報を得ていたのです。

ここで慶喜は、迷います。日頃から、色々と援助を受けているフランスの手を借りて、幕府を存続させることは重要、しかし、もしかしたら、これは、外国に日本資源を食い物にされてしまうだけかもしれない。事実、欧米列強の植民地となった東南アジアでは、盛んに鉱山の開発が行われている。

蝦夷地の鉱山開発をきっかけに、フランスが蝦夷地を支配する危険性は十分にある。

それに薩長の連中には、幕府は売国奴という格好の口実を与えることになる。

慶喜は、フランスに、「蝦夷地の開発権を与えるか、与えないか」という二つの選択に迫られます。

慶応3(1867)年5月 徳川慶喜は、栗本鋤雲を呼び出します。

栗本鋤雲は、小栗上野介の盟友で、フランス語に堪能な、幕府きってのフランス通です。

慶喜が栗本鋤雲に指示した内容は次の2点

1.日本の政治的主権者は徳川将軍にあるとフランスや欧州諸国に認識させよ

2.新たな蝦夷地鉱山開発権を提案して、600万ドル借款を成立させよ

慶喜は、蝦夷地の鉱山開発権を与えることを選択したのです。




600万ドル借款計画の結末

慶応3年(1867)8月、栗本鋤雲は、パリに到着しました。

その頃、徳川昭武一行は、パリを離れ、各国訪問の旅に出ていました。一行は、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを訪問し、各国の首脳たちと会い、友好関係を築いていきました。各国で王族と同等のもてなしを受け、イギリスの新聞は昭武を「プリンス 徳川」と報じたのです。ヨーロッパ各国は、日本の政治的主権は、徳川将軍にあると認識を改めたのでした。

一方で、栗本鋤雲は、幾度となくフランス外務省を訪れました。栗本鋤雲は、「蝦夷地の鉱山開発権」を新たに提案し、「600万ドル借款」の交渉を行ったのです。しかし結果は、はかばかしくありませんでした。

栗本鋤雲の報告では、「600万ドル借款と蝦夷地の開発権を任されましたが、いまだに混沌として未処理であり、3ヶ月進展がありません」とありました。

その後、幕府使節団と栗本鋤雲に2ヶ月遅れで、「大政奉還」の知らせが届きます。翌年には、鳥羽・伏見の戦いが起こり、その後、江戸幕府は終焉を迎えたのでした。

その頃、600万ドル借款契約の計画者である小栗上野介は、江戸を離れ、知行地(上州権田村)で静かな生活を送っていました。しかし新政府軍い反逆の疑いありとされて、1868年(慶応4)、非業の死を遂げたのです。まだ、42歳でした。

 




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