北条義時とは、どんな人? 妻は? 墓は? 家系図・八重姫との関係・キャストは? 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

鎌倉殿の13人 大河ドラマ

そろそろ来年のNHK大河ドラマが気になる季節になってきましたね。

来年の大河ドラマは、『13人の鎌倉殿』、主人公は、ズバリ、北条義時です。

主演は、小栗旬さん、脚本は三谷幸喜さん、もう、今から楽しみでたまりませんね。

でも、北条義時って、聞いたことがあるような、ないような、ちょっとイメージがすぐには、つかないということは、ありませんか?

今回は、北条義時について、書きたいと思います。

「鎌倉殿」とは? 頼朝と政子の結婚

まずタイトルにある「鎌倉殿」についてですが、「鎌倉殿」と呼ばれたのは、源氏の棟梁である鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝のことです。

鎌倉幕府の二代目は、源頼家、三代目は、源実朝。

この3人の「鎌倉殿」のもとで、鎌倉幕府の実権を握っていたのが、鎌倉幕府の二代執権である北条義時です。

北条義時は、源頼朝の妻である北条政子の弟と言ったら、わかりやすいでしょうか。北条政子は、北条義時よりも6歳上の姉になります。二人の父親は、北条時政です。

父の北条時政が40歳を超えた頃、平治の乱(平治元年・1160年)で敗れて亡くなった源義朝の嫡男である源頼朝が伊豆に流されてきます。北条時政は、その源頼朝の監視役を務めることになります。

ところが、北条時政がびっくりするようなことが起こります。なんと、自分の娘である北条政子が源頼朝と付き合っているというではないですか!

父親である北条時政は、この交際には、大反対。平家の目もあるし、いろいろややこしいのです。

やがて北条政子は、源頼朝と結婚することになり、北条時政は、源頼朝を応援する側に回ることになります。

これには、北条氏の近くにいた東伊豆の沿岸部の伊東氏の勢力が強く、このままだと、北条は、いずれ伊東氏に飲み込まれてしまうのではないかと言う懸念があったからだとも言われています。

そんな中での北条政子と源氏の血筋を引く源頼朝の結婚は、北条氏にとって、大きな力になり、プラスになると考えたのでしょうね。




北条義時とは、どんな人? 家系図は?

さて、そんな父・北条時政と姉・北条政子を持つ北条義時は、長寛元(1163)年に生まれました

家系図を見ると、北条義時は、北条時政の嫡男ではなく、兄の北条宗時がいました。

北条宗時は、北条政子と北条義時の兄に当たります。

 

嫡男ではない北条義時は、江間の土地を与えられ、北条の分家扱いとなります。そのため、若い頃は、江間小四郎義時と名乗っていました。

北条義時が15〜16歳になった頃、姉の北条政子が源頼朝と結婚します。

治承4(1180)年、8月に、頼朝が平家打倒を掲げ、挙兵します。

北条義時は、父の北条時政や兄の北条宗時らとともに、頼朝の軍勢に参加します。

ところが、頼朝は、挙兵するも相模の石橋山で平家方の軍勢、大庭景親軍に敗れてしまいます。

さらに、この戦で、兄の北条宗時が戦死してしまうのです。




北条義時の子・妻は? 八重のキャストは新垣結衣さん

北条義時の正室は、「姫の前」と言います。絶世の美女と言われ、頼朝の大変お気に入りで、大変、力のある女房であったとか。今でいうなら、美人のキャリアウーマンというところでしょうか。

義時は、姫の前に、一年間もラブレターを送りましたが、全く相手にされなかったそうで、ついには、頼朝が仲を取り持ったそうです。「絶対に離縁しません」という契約文を書かされたそうですよ。

姫の前との間に、次男の朝時、三男の重時が生まれています。ちなみに残念ながら、姫の前とは、後に離別します。

北条義時の長男である三代執権の北条泰時の母は、側室の阿波局です。

また、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、ガッキーこと新垣結衣さんが演じられるという八重。

八重は、伊豆に流されてきた頼朝の監視役であった伊東祐親(すけちか)の三女で、源頼朝の最初の妻なんです。頼朝の最初の子供、千鶴丸を産みますが、祐親の怒りを買い、千鶴丸は、殺されてしまいます。

ちなみに義時の母は、伊東祐親の長女ということで、八重の姉に当たります。つまり伊東祐親は、北条義時の祖父にあたります。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、八重は、義時の初恋の相手として描かれるようですね。

頼朝の最初の妻で、義時の初恋の相手なんて、想像するだけで、とても興味深いですね。

八重と北条義時の関係がどんな風に描かれるのかが楽しみです。




北条義時のしたことは? 家子とは?

その後、源頼朝は、鎌倉を拠点に勢力を伸ばし、平家、奥州藤原氏を滅ぼします。

建久3(1192)年、源頼朝は、朝廷から征夷大将軍を任じられます。

源頼朝が46歳、北条義時が30歳のことです。

源頼朝は、御家人たちから、鎌倉幕府の棟梁の称号である「鎌倉殿」と呼ばれるようになります。

北条義時は、養和元(1181)年の頃、源頼朝の寝室の警備を任されたのちに、家子(いえのこ)に抜擢されます。

家子とは、御家人の身分の一つで、頼朝によって選抜された側近のことです。言わば、頼朝の親衛隊であり、エリートでした。

北条義時は、その中でも「家の子専一」というナンバーワンの家の子でした。

そんな中、建久10年(1199)年、源頼朝が急死してしまいます。




13人の合議制とは?

源頼朝が亡くなった時、嫡男である源頼家は、まだ18歳でした。

そこで、幕府内の有力な御家人が13人集まり、会議を開き、頼家が最終的な判断を下すという制度を取ります。

しかし、制度が発足してから、わずか一年の間に梶原景時の失脚や、相次ぐ病死もあり、3人のメンバーがいなくなり、13人の合議制は、崩壊します。

そんな中、源頼家は、有力御家人の比企氏を重用します。比企氏は、長く頼朝に仕えてきた一族で、源頼朝の乳母である比企尼は、頼朝が伊豆に流された時も20年にもわたって、仕送りを続けていたそうです。

源頼朝は、その恩もあり、頼家の乳母を比企氏の一族から選んでおり、頼家は、比企能員の娘と結婚しました。

建久9(1198)年には、頼家の嫡男である一幡が誕生します。

北条氏は、政子が頼家の母という間柄でありながら、比企氏に押され気味になります。

そんな中、建仁3(1203)年、頼家が病気になり、8月には、危篤に。

もし、今、頼家が亡くなれば、一幡が将軍になってしまいます。比企氏の思い通りになるかもしれないと思った北条時政は、比企能員を自分の館に偽って、呼び寄せて、殺害してしまいます。

さらに、北条時政は、義時を大将とした幕府の軍勢に比企氏の館を襲撃させ、比企氏を滅亡させます。一幡もこの時に亡くなります。

頼家は、病気回復後にこれに激怒して、時政追討を命じますが、従うものはおらず、将軍職を引きずり降ろされ、伊豆・修善寺に追放されてしまいます。

3代将軍になったのは、頼家の弟で、まだ12歳だった実朝でした。

時政は、将軍、源実朝を補佐する執権になります。北条氏は、名実ともに幕府ナンバー2の地位を得るのです。

そして、翌年、修善寺にいた頼家は、刺客に襲われて殺されてしまいます。




北条時政の追放令

元久2(1205)年、父・北条時政は、後妻である牧の方とともに、実の孫である3代将軍実朝を亡き者にして、娘婿(牧の方の娘の夫)の平賀朝雅を新たな将軍にしようと画策します。

政子は、このことに気づき、義時に助けを求めます。

義時は、実朝を自分の屋敷に匿います。

そして、義時と政子は、父・時政と牧の方を鎌倉から追放し、将軍、実朝の暗殺計画を未然に防ぎます。

さらに、義時は、京にいた平賀朝雅を殺害します。

義時は、鎌倉幕府2代執権となります。この時、義時は、43歳になっていました。




和田合戦について

建暦3(1213)年、暗殺された頼家の忘れ形見を担いだ謀反の計画噂されます。

計画に関与しているのは、三代将軍実朝の側近で、軍事を統括する侍所のトップ別当を務める和田義盛の一族と言います。義盛は、13人の合議制のメンバーでもあった人物です。

義時は、和田義盛を挑発。和田義盛は、義時の館を襲撃し、和田合戦が起こります。

和田氏は滅亡し、義時は、和田義盛がついていた侍別当に就任します。

これにより、政治だけではなく、北条義時は、軍事まで掌握することになるのです。




実朝の暗殺

建保7(1219)年1月、将軍、源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されます。

本殿から出てきて、石段を降りているときに斬り殺されてしまうのです。

実朝は、まだ28歳でした。

実は、この実朝を殺したのは、公卿でした。公卿は、二代将軍である頼家の子で、実朝は、公卿の叔父になります。公卿は、鶴岡八幡宮の別当でした。




尼将軍 北条政子とは

三代将軍の源実朝は、暗殺されてしまったわけですが、実朝には、跡継ぎがいなかったのです。

これに困った幕府は、次の将軍候補を探そうとします。そこで、白羽の矢を立てたのが、後鳥羽上皇の皇子。この後鳥羽上皇の皇子に、4代将軍になってもらえないだろうかということを朝廷に願い出るのです。

ちなみに実朝は、京の公家、坊門家から正室を娶っていました。坊門家は朝廷で実権を握っていた後鳥羽上皇の母親の血筋に当たります。実朝は、上皇と姻戚関係を結んだのです。

実は、実朝がなくなる前年である建保5(1218)年のこと。

北条政子が上洛した時に、後鳥羽上皇の乳母と将軍後継問題について、話し合っていたのです。

その際に、もしも源氏の血が途絶えるようなことがあったら、後鳥羽上皇の皇子を将軍にしてもらえないかという密約を交わしていたと言います。

だから、幕府は、この問題は、うまくいくと思っていたようですね。

ところが、後鳥羽上皇がこれに難色を示して、問題を先送りにした事により、幕府と朝廷の関係が怪しくなってきました。

後鳥羽上皇は、この機につけ込むような形で、寵愛していた白拍子が持つ所領を管理している地頭を罷免するように院宣を出したのです。

地頭の罷免は、幕府の権威を揺るがす一大事です。

北条義時は、この後鳥羽上皇の無理な要求を突っぱねます。そして、御家人を守ろうとしたのです。

さらに一千騎の兵を上洛させ、上皇に地頭を罷免しないことを伝え、皇子を将軍にできないなら、代わりに他の人間を出すように求めました。

後鳥羽上皇は、摂政関白の子ではあれば良いと北条義時の要求にこたえます。そこで、源頼朝の遠縁にあたる摂関家の九条家から、将軍を出すことが決定しました。

その時、将軍になったのは、まだ2歳だった三虎(藤原頼経)。

そして、北条政子が将軍の後見人となり、政子は、それ以後、尼将軍と呼ばれる事になったのです。




北条義時追討の宣旨とは?

そして、承久3(1221)年5月14日

後鳥羽上皇が、幕府に対して兵を挙げます。

後鳥羽上皇は、諸国の守護地頭に『鎌倉幕府執権 北条義時 追討』と宣旨を出します。

幕府相手に、戦いを始めるかと思ったら、なんと、名指しで、個人に対して、追討令を出されるなんて、北条義時もびっくりですよね。

後鳥羽上皇は、自分の院宣に抵抗した義時がいる限りは、武士たちを従わせることは、できないだろうと考えたのです。

そこで後鳥羽上皇は、天皇の名の宣旨を出す事によって、幕府が義時派と反義時派に別れて、内部で潰しあわないかと計ったのです。

これには、さすがの北条義時も、困ってしまいました。




承久の乱  後鳥羽上皇の院宣を受けての北条政子の演説

そんな義時を救ったのは、北条政子です。

やっぱり頼れるは、姉ですよね。さすが尼将軍ですね。

鎌倉中が北条義時追討の宣旨に動揺している中、北条義時の屋敷に集まる御家人たちの前に姉の政子が颯爽と現れます。

そこで、北条政子は、有名な演説をします。

故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい

政子のこの言葉は、御家人たちを鼓舞させ、朝廷との戦いを決断させます。

その日のうちに北条義時を交えて軍議が開かれ、義時は、19万の幕府軍を派遣 上皇軍に見事、勝利を収めます。

北条義時は、承久の乱に加担した公家や御家人たちを次々に処刑し、さらに、後鳥羽上皇を隠岐に流してしまいます。

承久の乱の首謀者である後鳥羽上皇に京にいてもらうわけにはいかない。

ただ、隠岐でそのまま亡くなってしまった場合は、後鳥羽上皇は、怨霊となり、幕府や自分が祟られるかもしれない。

まだまだそんなことを考えてしまう時代だったのですね。それでも北条義時は、覚悟を決めたのです。

承久の乱で、後鳥羽上皇に勝った事により、幕府の支配権は西国にまで及び、地方の一豪族に過ぎなかった北条義時は、全国の統治者となるのです。

北条義時は、元仁元(1224)年6月13日に62歳で亡くなりました。承久の乱から3年後のことです。死因は、持病の悪化とされています。




北条義時のゆかりの地、伊豆の国市

北条義時の出身地は、現在の静岡県伊豆の国市です。

北条氏は、伊豆国田方郡を拠点とした豪族でした。当時の北条氏は、伊豆在庁官人、いわゆる地方の一役人で小規模な武士団でした。

伊豆の国市には、源頼朝の流された地です。この地で、頼朝が北条政子と出会いました。

北条義時が創建した寺院、北條寺も有名です。北條寺の境内には、北条義時夫妻の墓所があります。北條寺の近くにある江間公園は、北条義時邸があった場所とされています。

また、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」伊豆の国市推進協議会では、「伊豆の国市北条家歴史散策マップ」を作られたそうです。「義時コース」や「政子コース」をはじめとしたマップがあるそうです。

とても気になりますね。

市内の公共施設や観光施設においてあるそうですよ。観光に行かれた際は、ぜひ、寄ってみたいですね。




北条義時の墓は、法華堂跡

源頼朝は、治承4(1180)年に鎌倉に入り、鶴岡八幡宮の東側にあたる大倉の地に御所を構え、政治を行いました。

法華堂は、大倉幕府の跡の裏山にあります。源頼朝の墓を中心とする史跡となっており、国指定史跡です。

平成17(2005)年に実施された鎌倉市教育委員会の発掘調査により、源頼朝の墓の東隣りの山の中腹から、北条義時のものではないかと思われる法華堂跡の遺構が発掘されました。

頼朝と義時の墓は、わずか100メートルぐらいしか離れていません。

鶴岡八幡宮の東側から徒歩数分のところにある法華堂。頼朝の墓の階段の下には、白旗神社が建てられています。白旗は、源氏の白旗からきています。

少し歩くと、三浦一族の墓や、母が源頼朝の乳母子だったと言われる島津忠久、頼朝の側近の大江広元、、大江広元の子で、毛利元就の先祖にあたる毛利季光の墓があります。




北条義時のキャストは、小栗旬さん

そんな北条義時を演じるのが、俳優の小栗旬さんです。

小栗旬さんの大河ドラマ出演回数ですが、実は、8回目だそう。記憶に新しいところでは、2018年の『西郷どん』での坂本龍馬。また2013年の『八重の桜』での吉田松陰が挙げられますよね。

実は、8回の出演中のうち、最初の2作は、少年時代の役なんです。その中でも『秀吉』で、石田佐吉(石田三成の少年時代)を演じられたのですが、2009年には、『天地人』で、もう一度、今度は、大人の石田三成を演じているのが面白いですね。

小栗旬さんは、かなり大河ドラマとの縁の深い俳優さんなんですね。




北条義時と鎌倉幕府がよくわかる本・小説・漫画は?

大河ドラマの前に、北条義時や鎌倉幕府のことを少し知っておきたいですよね。

オススメの本を紹介します。

まずは、歴史小説家の永井路子さんの『炎環』。

永井路子さんの直木賞受賞作です。炎環は、1979年に放送された大河ドラマ『草燃える』の原作でもあります。永井路子さんは、主に平安〜鎌倉時代を舞台に小説を書かれていて、とても面白いです。また、大河ドラマの原作としては、『山霧 毛利元就の妻』が1997年放送の『毛利元就』の原作となりました。

漫画で北条義時を知るのもいいですね。漫画日本の歴史をはじめとして、北条義時を描いた作品も数々、出版されています。絵から当時の文化や様子を知ることもできますね。

さらに時代は、違うのですが、週刊少年ジャンプにて、2021年の8月から連載されている『逃げ上手の若君』は、1333年の鎌倉幕府の滅亡、南北朝時代が舞台となっています。

主人公は、第14代執権の北条高時の子である北条時行(ときつら)です。

北条義時から、約100年後の鎌倉幕府がどうなったか、想いを馳せながら、読んでみるのも良いかもしれませんね。

 




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