原市之進の最期は暗殺、子孫は? 原市之進役は尾上寛之さん 山岡鉄舟・平岡円四郎との関係は? 大河ドラマ『青天を衝け』

大河ドラマ『青天を衝け』

一橋慶喜の右腕とも言える平岡円四郎が暗殺されてしまい、一橋家は、どうなってしまうでしょうか?

平岡円四郎の後、慶喜を支えていくのは誰なのか?

今回は、平岡円四郎の後任とも言える原市之進について、書きたいと思います。

原市之進について プロフィール

原市之進は、天保元(1830)年生まれです。水戸藩士・原雅言の次男として、生まれ、あの藤田東湖とは、いとこの関係になります。

原市之進は、年代的には、渋沢栄一の10歳上、そして徳川慶喜の7歳上、平岡円四郎よりは、8歳下になります。

若い頃から、弘道館で学び、藤田東湖や会沢正志斎に学んでいたとされます。その類いまれなる英明さと才能が徳川斉昭の目に止まることになり、抜擢されることに。

嘉永6(1853)年、23歳の時に、昌平坂学問所に入ります。昌平坂学問所とは、江戸・神田・湯島に設立された江戸幕府直轄の学問所です。

同年7月には、長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉にも、川路聖謨に同行して、長崎へ赴いています。

水戸に帰国した後の安政2(1855)年には、原市之進は、弘道館で、教師になります。また、箐莪塾(せいがじゅく)という経済なども教える学問所を水戸五軒町に開きます。五軒先生と呼ばれていました。門弟は、五百人にもなり、藤田東湖の四男である藤田小四郎を教えていたとも言われています。

大変、切れ者であった原市之進。江戸城門外にて、安藤信正が襲われ、暗殺未遂となった『坂下門外の変』も、原市之進が計画し、安藤暗殺の斬奸状(悪者を斬り殺す時に、その理由を書いた文書のこと)を書いたのも原市之進だと言われています。




原市之進役は、尾上寛之さん プロフィール

そんな原市之進を演じるのは、俳優の尾上寛之さん。一見、歌舞伎の人?と思われるお名前なのですが、そうではなく、「おのうえ ひろゆきさん」と読みます。

一瞬、お名前を聞いて、ピンと来なくても、「あっ! 見たことある」と思われる方も多いと思います。今までにも、数々のドラマや映画や舞台で活躍されている実力派の俳優さんです。

尾上さんは、1985年7月16日生まれの 現在は、35歳。大阪府茨木市出身の俳優さんです。大阪出身ということもあり、大阪放送局が制作されるNHK 朝ドラに出演されているのを、見かけることが多いと思います。

今までに出演された朝ドラと配役をあげてみます。『ぴあの』、『ふたりっ子』『甘辛しゃん』『てるてる家族』『芋たこなんきん』『カーネーション』『ひよっこ』『スカーレット』の、なんと、計8作品に出演!!

1994年『ぴあの』で子役として、デビューされたそうで、35歳にして、25年以上のキャリアを持たれるベテラン俳優さんなんですね。

私が尾上寛之さんを知ったのは、『カーネーション』の安岡勘助役です。この役は、主人公の小原糸子(尾野真千子さん)の幼馴染役で、最初の方から登場する糸子の幼なじみです。

主人公と仲良く遊んだり喧嘩したりという時代を経て、出征ののち、一旦、家に戻るも病んでしまい、最後は、戦死してしまうという役どころでした。光と陰の両方の部分を演じられていたこともあり、この一作で大変、印象の残る俳優さんとなりました。

その後、『ひよっこ』では、主人公 みね子の幼馴染のお兄さん役の角谷太郎として、出演。こちらは、コミカルな役で、登場するのが楽しみなぐらい笑わせていただきました。

そして『スカーレット』では、掛井武蔵丸 (かけいむさしまる)というインパクトのある名前で、出演。掛井武蔵丸 は、主人公 喜美子(戸田恵梨香さん)の息子役を演じた武志(伊藤健太郎さん)の恩師という設定です。

本当にシリアスから、コミカルまで、なんでもこなす名俳優さんです!!

また、大河ドラマにもすでに4作品も出ているというNHKにもなくてはならない俳優さんなんです。

しかも人気作品ぞろい! 『龍馬伝』『花燃ゆ』『西郷どん』そして『青天を衝け』です。

これがまた、歴史上の大物ぞろいの役を演じられていて、『龍馬伝』では、のちの日本の初代首相である伊藤博文になる伊藤俊輔役、『西郷どん(せごどん)』では、のちに総理大臣で、早稲田大学の創設者、大隈重信です。そして、今回の幕末の重要なキーマンの一人でもある原市之進。

演じている役も大物ですが、ご本人もこれから、もっと大物になるのでは、と思っています。

NHKだけでも、語りきれないぐらい、数々のドラマに出ているわけですが、この他にも『ルーキーズ』『アンナチュラル』や『べしゃり暮らし』をはじめとした人気作品に出演しています。

残酷歌劇『ライチ☆光クラブ』では、中村倫也さんとの舞台の共演も話題になりました。

また、数々のCMにも出演されているそうで、知らず知らずのうちに、尾上寛之さんを何度も観ているのかもしれませんね。




原市之進は、徳川慶喜のブレーン 平岡円四郎の後任

原市之進は、文久2(1862)年に一橋慶喜に同行して、京都へと入ります。

翌年の元治元(1864)年、4月には、水戸藩の家臣から、一橋家の家臣になります。同年6月に慶喜の右腕とも言える平岡円四郎が暗殺されてしまいます。そのこともあり、原市之進は、慶喜の側近として、慶喜を補佐していくことになります。

慶応2(1866)年には、慶喜によって、幕臣に取り立てられ、目付に就任することに。

同年7月20日に第14代将軍 徳川家茂が急死してしまいます。第二次長州征伐の最中、大阪城で亡くなったのです。

これにより、徳川慶喜が徳川家相続を7月27日に承知します。ただ将軍に就任したのは、同年の12月5日です。徳川宗家を相続した時点で、将軍になるところが、半年間も期間があります。

これには、原市之進の思惑があったようです。「徳川家を継ぐこと」と「将軍になること」の意味を分け、徳川家は引き継ぐけれど、すぐには、将軍にはならないよ、と。全国の大名が「この国難を乗り切るには、慶喜公の力が必要だ」と思わせて、要望されるように仕向けたということです。




原市之進の最期は、暗殺 山岡鉄舟・高橋泥舟との関係は?

一橋慶喜には、3人の優れた側用人が仕えていました。中根長十郎、平岡円四郎、そして原市之進です。この3人は、中根長十郎が文久3(1863)年10月に、平岡円四郎が元治元(1864)年6月に、原市之進が慶応3(1867)年8月に暗殺されています。

慶喜が将軍に就任した3ヶ月後に、孝明天皇が急死します。

諸外国から、開港を求められていた兵庫港の開港に尽力するも、その功績を妬まれます。

平岡円四郎も『青天を衝け』の中で「佞臣(ねいしん)主君に媚びへつらい、邪な心を持ち、操作をするもの)」と言われ、妬まれていましたが、原市之進も、兵庫港開港問題で、攘夷派から、開国派へと寝返ったと思われたのです。

慶応3(1867)年、原市之進は、結髪中に背後から、襲われたと言います。そのまま殺されてしまいます。

この時、原市之進は、まだ38歳でした。

幼い時から、英明で才能あふれる原市之進でしたが、実際に一橋家の家臣になり、慶喜のブレーンとして活躍したのは、、わずか3年程度のことでした。

原市之進を暗殺したのは、誰かというと、水戸藩士の鈴木豊次郎と依田雄太郎です。平岡円四郎同様、奇しくも同じ、水戸藩士。同僚に殺されたことになります。

そして、この二人を原の元に送ったのは、山岡鉄太郎(山岡鉄舟)、高橋泥舟、松岡万、中条金之助などの旗本だと言われています。

なぜ、山岡鉄舟らが刺客を原へと差し向けたのでしょうか? それには、この山岡鉄舟らが、尊王攘夷派だったから、そして、原は、開国派だからと言われたからだということです。




原市之進の子孫は?

原市之進は、結婚した妻との間には、女の子が一人いました。しかし、男の子はいなかったのです。叔父の息子を婿養子として、迎えます。

しかし、この二人が離縁してしまい、原家は、断絶してしまいます。

幕末に徳川慶喜のもとで、活躍した原市之進。短い生涯、そして、歴史の表舞台に出た期間も短いものでは、ありましたが、大きな功績を残した人物の一人であることには、違いありません。

大河ドラマ『青天を衝け』でも、もうしばらく、その姿を見られることと思います。




コメント

タイトルとURLをコピーしました