民部公子・徳川昭武とは? 民部公子の意味、読み方は? 渋沢栄一とパリ万博へ 徳川慶喜の弟 昭武役のキャストは、板垣李光人くん 朝ドラ『らんまん』とも同時代 大河ドラマ『青天を衝け』

大河ドラマ『青天を衝け』、渋沢栄一は、徳川昭武に随行して、渡欧。パリ万博に行きます。

本日は、徳川慶喜の異母弟でもある徳川昭武(とくがわ あきたけ)について書きたいと思います。

(2023年のNHK朝ドラ『らんまん』でも名前が出た徳川昭武(民部公子)。『らんまん』は、『青天を衝け』と時代が重なるので、『青天を衝け』を思い出して、懐かしくなりますね)

民部公子・徳川昭武とは、どんな人? なぜ、民部公子と呼ばれているの? 民部公子の意味、読み方は? 15代将軍・徳川慶喜の弟

徳川昭武は、水戸11代藩主で、最後の藩主に当たります。

家系図を見ると、父は、烈公と呼ばれた水戸9代藩主の徳川斉昭、そして、異母兄は、第15代将軍の徳川慶喜。

そう、徳川昭武は、将軍・徳川慶喜の弟なんです。

慶喜は、めちゃくちゃ、有名だけど、昭武? よく知らないなあと言う人も多いかもしれません。

生まれたのは、嘉永6(1853)年なので、渋沢栄一よりは、13歳下になります。幕末の歴史上の人物、特に『青天を衝け』に出てくる人物は、今のところ、ほとんどが渋沢栄一よりも年上なのに、昭武は、一回り以上も下なんですね。

徳川昭武は、生まれは、江戸の水戸藩中屋敷。幼名は、余八麿と言います。その後、水戸にて育ちます。初名は、松平昭徳です。

文久3(1863)年に江戸に戻り、また、その後、京都にも行き、禁門の変(1864)年や天狗党の乱(1864〜1865)年では、出陣もしています。その頃、わずか、11歳か、12歳ですよね。まだ子供の頃なのに、いろいろと大変な少年時代を送ったようです。

慶応2(1867)年に清水徳川家を継ぎます。清水徳川家とは、徳川御三卿の一つです。御三卿は、田安家、一橋家、清水家があり、徳川将軍家に後継者がいない時に、将軍の後継者をここから出すという役割、御三家へも後継者を出すという役割でした。

ところで、大河ドラマ『青天を衝け』の中で、徳川昭武は、「民部公子」と呼ばれています。

民部公子とは、みんぶこうしと読みます。民部公子とは、どういう意味なのでしょうか?

なぜ民部公子と呼ばれたのかというと、徳川昭武の当時の官職名である民部大輔(みんぶたいふ)からだったんですね。

この官職名と、貴い人の子息という意味を組み合わせて、民部公子だったとは!

民部公子という呼び名があまりにも、徳川昭武演じる板垣李光人さんに、イメージがぴったり過ぎて、思わず唸ってしまいました。

ホント、まさに彼のために名付けられたような呼び方ですよね。




渋沢栄一と民部公子・徳川昭武の関係は? パリ万博へ 滞欧日記に記す

その頃、ヨーロッパでは、パリ万博が開かれることになりました。慶喜が将軍になった翌年の1867(慶応3)年4月(4月〜10月に開催)に開催されることになったのです。パリ万博の開催にあたり、日本は、フランスから、出品と将軍の親族の参加を依頼されます。慶喜が名代として選んだのが昭武なんです。

この時、民部公子・徳川昭武が何歳だったかというと、なんと、まだ14歳! 確かに、徳川昭武という人を歴史上のドラマや映画などで、見かけることはあまりないですが、こんなに若くから、日本の代表として活躍していたのですね。

徳川昭武の渡仏には、使節団として、二十数名が同行することになったんですが、なんと、このメンバーに渋沢栄一が選ばれたんです。庶務や会計などを担当する役割でした。経済が得意な渋沢栄一には、ぴったりの役目ですよね。

それにしても何年か前には、「横浜焼き討ち」や「高崎城を乗っ取り」なんて考えていた栄一が、一橋家に仕え、慶喜の15代将軍の就任で、幕臣になり、なんと、フランスにまで行っちゃうなんて、びっくりですよね。この時の、ヨーロッパでの体験は、その後の栄一の人生に、とても影響を与えることになるのです。

この旅の行程ですが、1867(慶応3)年1月11日に横浜を出発し、上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデン、スエズ、カイロ、アレキサンドリア、マルセイユ、リヨン、パリという行程でした。到着したのは、3月7日。2ヶ月近くにもなる船旅ですね。

ちなみにこの頃、幕府は、フランスとは、関係が良かったので、フランスの植民地の港では、歓迎されましたが、イギリスとは、良くなかったので、イギリスの植民地での港では、あまり歓迎されなかったそうです。

パリ到着後は、昭武の一行は、当時のフランス皇帝であるナポレオン3世と謁見します。これには、栄一は、同席していなかったようです。

万博終了後は、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを訪問。ベルギー国王 レオポルド1世を始め、それぞれの国の国王と謁見をし、パリにて、留学生活を送っていたそうです。

ちなみに、昭武は、ちゃんとこの記録を日記にしたためており、この時のことは、『徳川昭武幕末滞欧日記』に記されて、残っているということです。

15歳の昭武や28歳の渋沢栄一、若き日の二人の目に、海外はどう映ったのでしょうね。

慶応4(1867)年、10月に、まだ昭武がパリに滞在中に、日本では、慶喜が大政奉還を行なっていました。昭武は、それを翌年1月に知らされ、また、その後、鳥羽・伏見の戦いが起こったことをフランスの新聞で知ります。

すぐに帰ったわけではなく、結局、フランスを発ったのが、9月4日、帰ってきたのが11月3日でした。

幕末の動乱期に、巻き込まれずに、海外へと留学していたのは、栄一ともども、幸運なことだったかもしれませんね。

また、パリ滞在中には、兄である水戸藩主の徳川慶篤が死去したとの知らせが届き、帰国後は、水戸藩主になりました。明治2(1869)年、版籍奉還によって、水戸藩知事となっています。明治4(1871)年、廃藩置県により、水戸藩知事は、免じられることとなります。




民部公子のその後・帰国後は? 明治維新後の民部公子の生涯は? 松戸の徳川昭武邸 子孫は?

明治7年(1875)年に、陸軍の戸山学校で教官になります。明治8年(1875)年に、結婚します。まだ、22〜23歳の頃ですね。

そして、明治9(1876)年に今度は、フィラデルフィア万博のため、アメリカに行くことになります。その後、またフランスに留学と、つくづく海外に縁がある人ですね。

海外留学と、とても華々しく見える人生なのですが、実生活では、辛いこともあったようです。

明治16(1833)年に長女が誕生するのですが、翌月に奥さんが亡くなってしまうのです。この時、まだ30歳だというのに、隠居願いを出して、家督を養子にした甥の篤敬に譲ってしまいます。

その後は、戸定邸という千葉県松戸市にある別邸で過ごすことになりました。

戸定邸は、国の重要文化財で、旧徳川家住宅松戸戸定邸、庭園は、旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)という名称で、国の名勝に指定されています。

戸定邸は、徳川昭武邸として、明治17(1884)年に建てられました戸定邸は、一般に公開されている徳川家の唯一の住まいだそうです。

戸定邸は、周囲2.3ヘクタールが戸定が丘歴史公園になっています。

公園内には、戸定歴史館があります。徳川慶喜や徳川昭武の資料、パリ万博の資料や慶喜・昭武が撮影した写真なども展示されています。

また、公園内には、与謝野晶子の歌碑もあります。

徳川昭武は、兄の徳川慶喜同様に、多趣味であったようで、写真や園芸、自転車、狩猟などを嗜んでいます。慶喜と一緒に出かけることもあったとか。東海道線を使って、行き来したことも多かったそうです。

昭武の写真の腕前は、なかなかのもので、現像なども自分でやっていたようです。慶喜・昭武と兄弟揃って、器用だったのかもしれませんね。

徳川昭武の子孫・末裔についてですが、養子として、家督を譲った甥の篤敬が、明治31(1898)年に亡くなってしまいます。まだ44歳でした。その子、國順(くにゆき)が水戸徳川家の当主となって後を継ぐのですが、國順がまだ11歳と年少だったため、昭武が後見となりました。

ちなみに篤敬がイタリア特命全権公使という職に就いていたため、國順は、幼い頃は、ローマ暮らしだったそうです。

徳川昭武は、明治43(1910)年に58歳で、亡くなりました。

そんな徳川昭武ですが、今回、大河ドラマ『青天を衝け』で、渋沢栄一と一緒にパリ万博に行ったことが取り上げられることになり、一気に知名度が上がりそうですよね。

実は、大河ドラマでは、幕末が取り上げられたことは、とても多いのですが、昭武が登場したのは、2回だけ。それが今回の『青天を衝け』で、その前は、1980年の大河ドラマ『獅子の時代』まで、遡ります。確かに、徳川昭武は、幕末に、パリ万博に行くという活躍をしているわけですが、逆に考えれば、幕末の動乱期に日本にいなかったわけで、幕末もののドラマに取り上げられることは、なかったのかもしれません。




民部公子・徳川昭武役の俳優は、板垣李光人くん プロフィール 趣味に写真も。

大河ドラマ『青天を衝け』で、徳川昭武役を演じるのが板垣李光人さん。(読み方は、いたがき りひと)

板垣李光人さんは、2002年1月28日生まれの、年齢は、現在19歳です。身長は、164センチ、血液型は、AB型です。

徳川昭武が、最初に大河ドラマ『青天を衝け』で登場するシーンは、まだ十代前半なので、十代の俳優さんが演じるのは、ちょうどいいかもしれませんね。

実際にも凛とした佇まいで、美少年だったと言われている民部公子・徳川昭武。

板垣李光人さんは、とてもカッコいいイケメンで、美しいその顔立ちからは、ハーフ?なんて思ってしまいそうですが、山梨県のご出身だそうです。

2歳の頃からモデルをされていたそうです。小学校五年生の時に、オーディションに合格したことで、現在のスターダストプロモーションという事務所に所属することになったのだそうです。

李光人というお名前は、珍しくて、かっこいいですよね。本名だそうです。お名前の由来ですが、ドイツ語で光を意味するLichtから来ているそうです。なんて素敵な名前なんでしょうね。ご両親の願いが込められているようですね。文字通り、キラキラと眩しく輝いておられますよね。

ちなみに大河ドラマ出演は、今回が2回目。以前は、何の役だったの?と思ったら、『花燃ゆ』で吉田寅次郎(吉田松陰)の子役時代を演じられたそうです。(吉田寅次郎役は、伊勢谷友介さん)

代表作ですが、もちろん人気アニメが実写になった『約束のネバーランド』が挙げられるでしょう。この映画では、主演の浜辺美波さん、城桧吏さんらと出演。主要な登場人物の一人、ノーマンを演じています。

またテレビでは、『仮面ライダージオウ』のウール役、『カラフラブル〜ジェンダーレス男子に愛されています〜』の相馬周役、舞台では、ミュージカル『青春-AOHARU-鉄道』シリーズで、活躍されています。

そんな板垣李光人さんの特技は、水泳やイラストを描くこと。イラストは、ご自身のインスタにもアップされることがあり、イラストの本を出すのが夢だそうです。そう遠くない将来に実現しそうですよね。

そして、板垣李光人さんの趣味は、写真、音楽、アニメを見ることだそうです。特に、写真というところが、徳川昭武と通じるものがありますね。

(2022年には、板垣李光人さんは、小日向文世さんと住友林業のCMに出演されています。

少し大人っぽく、そして、ますます凛々しくなられた板垣李光人さんです)

それにしても徳川慶喜・昭武兄弟がもし現代にいたら、パソコンやスマホなどを駆使して、インスタやYouTubeなどを配信していたりしそうですよね。

大河ドラマ『青天を衝け』での板垣李光人さん演じる徳川昭武が登場するのは、6月13日の放送回からです。

渋沢栄一とは、大きく関わっていく徳川昭武。これからのドラマの展開、そして、板垣李光人さんの演技がとても楽しみですね!




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