歴史探偵『謎の将軍 徳川慶喜』徳川慶喜と渋沢栄一 大政奉還と鳥羽・伏見の戦い

大河ドラマ『青天を衝け』でも、クローズアップされている徳川慶喜。

草彅剛さん演じる徳川慶喜は、聡明な中、優しさもあり、気高さと親しみやすさを持ち合わせて、徳川慶喜に、ぴったりな気がしますよね。そんな徳川慶喜ですが、実際には、どんな人、何をした人だったのでしょうか?

2021年6月16日(水)にNHK『歴史探偵』で「謎の将軍 徳川慶喜」が放送されました。

再放送は、終了していますが、見逃し動画配信として、6月23日(水)午後11時14分まで、 NHKプラスにて観られるようですよ。

『歴史探偵』は、俳優の佐藤二朗さんが所長、NHKの渡邊佐和子アナウンサーが副所長を務める歴史上の事件の謎を解明していく歴史番組です。探偵役も近田雄一アナウンサーら、NHKのアナウンサーが活躍します。

今回は、徳川慶喜と大政奉還、鳥羽・伏見の戦いの謎について迫ります。今回の主役、徳川慶喜役は、俳優の半田健人さんです。かなりイケメンな徳川慶喜です。

渋沢栄一による徳川慶喜の名誉回復 『夢昔会筆記』

幕末の最重要人物とも言える徳川慶喜は、明治以降は、歴史の表舞台からパタリと姿を消してしまいます。慶喜は、維新後、静岡で、趣味に没頭し、ずっと人と会うことを避けていました

油絵・手裏剣・自転車・書・弓道・写真など、かなりの腕前のものも多かったそうです。

どうして徳川慶喜は、歴史の表舞台から、姿を消してしまったのでしょうか?

そんな徳川慶喜の名誉回復に取り組んだのが渋沢栄一!

徳川慶喜の家臣だった渋沢栄一は、慶喜の元に何度も通い、慶喜の口を開かせることに成功します。

渋沢栄一が徳川慶喜に、将軍時代のことや、それ以前のことをインタビューして記録したのが『昔夢会筆記』(せきむかいひっき)です。いわば、徳川慶喜のインタビュー集。

これは、明治の世になって、徳川慶喜が渋沢栄一に語った回顧録です。

幕末、明治維新の重大な局面で、将軍・徳川慶喜が何を考えて、どう行動したのか、その詳細が記されています。

慶喜は、自分の死後に、公開することを条件にして、渋沢栄一の取材を承諾しました。

明治40(1907)年7月から、25回にわたり、聞き取りが行われました。

この時点で、徳川慶喜は、69歳。40年も前に起きた出来事を詳細に語り始めます。




徳川慶喜をめぐるふたつの謎 大政奉還と鳥羽・伏見の戦い 幕末の二大事件の真相は?

「大政奉還」と「鳥羽・伏見の戦い」

「鳥羽・伏見の戦い」は、「大政奉還」から、3ヶ月後、徳川慶喜率いる旧幕府軍と、新政府軍が激突し、旧幕府軍側が大敗をしてしまった戦いです。戊辰戦争の始まりとなった戦争で、その後、1年4ヶ月も戦いが続きました。

この辺りの幕末の歴史の流れ、大政奉還からの流れ、難しくはないですか? わかりやすく知りたいですよね。

この「大政奉還」と「鳥羽・伏見の戦い」、この二つの事件には、大きな謎があり、その謎を究明するためにも、徳川慶喜本人に迫ろうというのが今回の『歴史探偵』の調査の目的でした。

やはり、徳川慶喜を知る上で、外せないのが、このふたつの出来事だと思うのです。




大政奉還とは? 理由・目的は? AIで徹底分析

大政奉還は、幕末に京都の二条城にて、行われました。

これにより、260年もの、長きにわたり続いていた、徳川の世が終焉を迎え、近代日本の幕開けとなりました。

この大政奉還の立役者は、もちろん、徳川家の最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜です。

大政奉還の記述にも

政権返上、一同がそれを承知している、未曾有の御英断でありがたいことでござるとお辞儀をした

徳川慶喜は、大政奉還が一同合意のもと、承認されたと誇らしげに語っています。

NHK『歴史探偵』では、徳川慶喜が大政奉還を、どのようにして成し遂げたのか、その真意を「AI」を使って徹底解析をしていました。

そのデータから、徳川慶喜の隠された心の中が見えてきたのです。

慶喜は、しばしば、「わからない」、「覚えていない」という発言をしています。これは、本当に忘れていたのではなく、意図的に本心を隠している部分があるのではないかということ。

大政奉還の証言について、本当のことが書かれているかどうかを、「AI」で、見極めることになりました。実は、大政奉還に関する記述を「AI」で、分析したところ、9割に曖昧な表現があるというのです。

「政権返上、一同がそれを承知している」という記述に対しても、この「一同」という言葉が怪しいのではないか? と言われています。

「一同が承知した」という表現を慶喜は好んで使っています。

前の将軍である家茂が亡くなった時に、徳川家は継ぐけれど、将軍にはならないと、慶喜は言っています。しかし、将軍を継ぐべき存在が慶喜しかいない。「みんながお願いします」と頼んできて、「一同が承知した」からという流れで将軍になっている。

大政奉還についても「みんなが承知したという保証」をつけたとのこと。

当時、将軍といっても幕府の力が弱くなっていて、諸藩の同意がないと、うまく進んでいかない面があったということなんです。




大政奉還の日は? 真相は? 土佐藩 後藤象二郎

では、本当に「一同」は承知していたのか?

京都・二条城は、幕末、政治の中心だった場所です。

そんな二条城の大政奉還が行われた「大広間 二の間」へ。

徳川の世を終わらせた大政奉還ですが、「ある日、突然」というわけにはいかず、慶喜は、天皇に政権を返上する前に、家臣や大名たちに発表し、合意を取り付ける必要がありました。

その発表の場が二条城です。二条城を訪れると、大広間には、人形などを用いて、当時の様子が再現されています。

このシーンは、教科書などにも絵入りで載っている日本史上、大変、大きな事件ですよね。

ところが、この教科書にも載っている有名な絵と、この二条城の大広間の再現のものとを比べてみると、違いがあるのです。

実は、絵に描かれている襖の模様が桜の花であるのに対して、二条城の大広間の襖は松の木の模様になっているのです。

これは、「絵に描かれている場」と「二条城の大広間の再現された場」とは、部屋が違うんです。

実は、大政奉還(の発表)は、実際には、二日に分けて、行われたんです!!

一日目は、桜の間、二日目は、松の間、

一日目は、徳川家の家臣などに向けて、大広間の奥の『黒書院』という部屋で催されたのです。教科書などに出てくるあの有名な絵は、一日目の発表の様子を描いたものだったんです。

重要だったのは、二日目の松の間でのもの。

大広間で発表された大政奉還。これは、全国の藩の代表を集め、賛否を問う場です。こちらは、反対の声が上がることが予想されました。

なぜなら、大政奉還でトップの幕府がなくなれば、自分たちの藩にも、その影響が及ぶ恐れがあったからです。

慶喜は、どうやって反対意見を封じ込め、一同の合意を取り付けることに成功したのでしょうか。

史料を調べていくと、ある人物の名が浮かび上がってきました。

それは、土佐藩の重臣 後藤象二郎です。名前は聞いたことはあるけれど、何をした人なんだろう、土佐にゆかりといえば、坂本龍馬なら知っているけど、うーん、とか、思いますよね。

土佐藩は、慶喜とともに、大政奉還を推し進めていました。

後藤象二郎は、慶喜の家臣から、大政奉還で反対する者が現れたら、論破してくれと頼まれていました。慶喜側は、後藤だけではなく、少なくとも3人には、声をかけ、味方に引き込んでいました。目的を達成するため、したたかな裏工作をしていたのです。

大政奉還を成功させるには、反対意見を抑え込まなければなりません。

大政奉還の発表の場には、40藩50人が参加します。

その中で、内通者は、わずか3人です。一同の合意どころか、反対意見に押し負け、「大政奉還」そのものが拒絶される恐れもあります。

慶喜は、どうやって、反対派を押さえ込んだのでしょうか?

ここで、慶喜は、反対派を締め出す作戦を取ります。

慶応3(1867)年10月、『諸家様廻章留』という慶喜から諸藩に送られた書状があります。

そこに記された日付は、10月11日という、召集がかかったのは、なんと大政奉還の発表の二日前のこと。

明後13日に、しかも議題については、大政奉還とは、一言もなく、「国家の大事」としか書かれていなかった。

突然の呼び出しに、国元や江戸にいる藩主は出席することができません。京にいた藩の役人たちが代理で駆けつけました。

そして、この後、上様からお話がありますと、「大政奉還」という衝撃の事実を聞かされます。役人たちの多くは、藩主に意見を聞くため、慌てて国元に帰ってしまいます。

50人いた参加者は、6人まで減りました。

ここで慶喜が、初めて皆の前に登場します。

内通者の一人、後藤象二郎が「実に容易ない御英断。我が藩は無論、他藩においても異論のあろうはずはござりませぬ」と声をあげます。後藤の発言と同じく、内通者が次々に参加を表明します。

これにより、誰も反対意見を出せなくなる

これが「一同」承知で認められたと言われる大政奉還の真実です。

慶喜のしたたかな戦略勝ちといったところでしょうか。

この翌日(13日)に、正式に朝廷に大政奉還をしました。




徳川慶喜は、なぜ大政奉還したのか? 理由 目的は?

そもそも、なぜ大政奉還をしなければならなかったのでしょうか?

狙いはなんだったのでしょうか。

この頃、日本は、外国の脅威にさらされていました。そんな中、幕府では頼りないと、西郷隆盛などを中心とする薩摩藩などの倒幕派の人たちは、天皇から許可を得て、幕府を倒そうとしていたのです。

天皇から許可が下りると、慶喜は、天皇、朝廷の敵、いわゆる朝敵となってしまいます。

慶喜は、朝敵になることだけは、なんとか避けたいと思い、速やかに政権を返上することで、倒幕派の攻撃を避けたのです。

その頃、薩摩藩は、朝廷に手を回して、幕府を倒せという命令を出させようとしていました。

ちょうど大政奉還(の発表)と同じ10月13日に、朝廷から、薩摩藩に、幕府を倒せという密勅が出たのです。

ところが大政奉還を慶喜がしたことで、倒すべき幕府がなくなってしまいました。

もし、慶喜が大政奉還をしなかったら、どうなっていたんでしょうね。

慶喜は、倒幕派に倒されるよりは、自らが政権を返上することによって、新政府になった時に、良いポジションでの新しい政治の参画を狙っていたのではないかということです。




大阪城へ退いた徳川慶喜

慶喜が『昔夢会筆記』の中で、語っていることがあります。

「いかようにとも勝手にせよ」一期の失策なり

一期の失策とは、一生の失策のことです。一生の失策なんて、なんと重い言葉なのでしょうか。

この一生の失策とは、鳥羽・伏見の戦いについてのことです。

大政奉還から、うまくいったと思ったのも束の間、慶応3(1867)年12月、大政奉還からの2ヶ月のことです。

京都で大きな事件が起こります。なんと、徳川と対立していた薩摩藩が、天皇がいる御所を封鎖。慶喜を排除して、勝手に新政府を作り上げてしまったのです。

慶喜は、この時は、京にいたのですが、薩摩との戦いを避け、大坂城へ退くという決断を下します。

大阪城に退いた慶喜は、追い詰められた状況を挽回する手立てがありました。

それは、徳川が持つ強力な艦隊を使い、大阪湾を封鎖すること。そうすれば、薩摩藩の武器弾薬の補給を止めることができるのです。それにより、戦わなくても敵を消耗させられる

さらに、薩摩が大阪城を攻撃してきた場合の備えも盤石でした。たとえ、京都方面から、敵が攻めてきたとしても大阪城は、日本最強クラスの要塞でした。城の周りに張り巡らされた水掘の幅は、80メートルもあり、敵の侵入を防ぎます。薩摩軍が大砲や銃で攻撃してきた場合も強固な石垣があります。石垣は、内側と外側で高さが違い、下の水掘から、内側の石垣の高さまで、34メートルもあり、大砲や鉄砲の直撃を受けても、耐えられるような、高く、崩れない強さがありました。

こんな鉄壁な守りを装備した大阪城と、最強とも言える徳川の艦隊に守られた慶喜は、待ってさえいれば、状況をひっくり返すことができるという勝算があったのです。

しかし、そう上手く、簡単には、ことは、運びませんでした。

鳥羽・伏見の戦いにおける3つの誤算が徳川慶喜を襲います。




鳥羽伏見の戦いとは? 誤算その1 江戸・薩摩藩邸焼き討ち

ところがここで誤算が起こります。

敵対していた薩摩が江戸で、放火などのテロ行為を始めたのです。

徳川方は、このことに激怒し、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまいます。

これだけでは、怒りが収まらない徳川の兵たちは、慶喜に薩摩との戦を直訴するため、船で、大阪へ押し寄せます。

そして、大阪城は異様な雰囲気に包まれていきます。

『徳川慶喜公伝』には、

「将兵たちの激高は激しくとても制することができません。思いを拒めば上様をさしかねない勢いです。」

という慶喜の側近の言葉が残されています。

兵を上げることを求められた慶喜は、ここで、二つの選択に迫られます。

大阪城にこもっていれば、戦わずにして勝てる、しかし薩摩との戦を拒めば、兵たちに殺されかねないという命の危険がある。

この時、慶喜は、「いかようにとも、勝手にせよ」と言ってしまいます。

戦をすることを認めてしまったのです。

ただ、幕府は、慶喜の改革によって様式化し、薩摩、長州に引けを取らない軍事力を持っていました。

薩摩藩に敵わなくて、鳥羽・伏見の戦いで、惨敗したイメージがあリますが、実際には、勝てるだけの軍事力があったのです。




鳥羽・伏見の戦いの敗因は? 誤算 その2 徳川軍の油断

1868(慶応4年)1月2日  徳川の主戦派たちは、京へと進軍を開始。

慶喜は、大阪城で戦の成り行きを見守ります。

ちなみに、鳥羽・伏見の戦いの場所がどこかというと、上鳥羽(現在の京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見、(現在の京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)あたりになります。

この時の兵力ですが、

徳川は、会津藩などを合わせ   約15000

薩摩は、長州藩などを合わせ   約 4000

なんと、徳川方は、薩摩軍のおよそ3倍以上もの兵力があったんです。

さらに、最新の研究では、シャスポー銃など、薩摩を上回る強力な武器も配備されていたことがわかってきています。圧倒的な兵力で、京に攻め上れば、仮に薩摩と戦っても勝つ可能性があったのです。

番組では、『戊辰戦争絵巻物』を紹介。これは、鳥羽・伏見の戦いの経過を描いた絵巻物で、全長60メートルにもなる大作です。現在、最新のデジタル技術を使って、この絵巻物に色をつけていくプロジェクトが進んでいます。これは、鳥羽・伏見の戦いの全貌を解き明かすためなんです。

番組で紹介されたのは、徳川軍と薩摩軍の兵の様子。

大砲の狙いを定め、また、茂みの中に身を潜めて、いつでも攻撃ができるように、臨戦態勢で挑んでいた薩摩軍。それに対し、徳川軍の描かれ方は、話をしている者や、下を向いているものもいて、全体的に覇気や緊張感に欠けています。

このことについては、『桑名藩戦記』にも、戦いに参加した兵の記録として、「銃に弾を込めておらず、準備をせずに戦いに臨んだ。完全に油断をしていた」などという記録が残っています。

大勢の軍勢で、京に攻め込めば、薩摩軍は恐れをなして逃げるに違いないという、慢心があったということです。

そして、1月3日 午後5時 鳥羽・伏見の戦いが勃発します。

絵巻物には、壊滅する徳川軍の様子が描かれています。




鳥羽・伏見の戦いと徳川慶喜 誤算 その3 錦の御旗

そして、最大の誤算が訪れます。なんと、錦の御旗が薩摩軍に上がるんです!

錦の御旗とは、天皇の軍隊であるという証拠なんです。

そういえば、大河ドラマ『西郷どん』(せごどん)や『八重の桜』でもその様子が描かれていました。

この旗に弓を引けば、朝敵となってしまうのです!

鳥羽・伏見の戦いで掲げられた旗が、京都にある仁和寺に残されています。

実は、薩摩軍は、徳川軍との戦いを想定していて、何本もの錦の御旗を事前に準備していたのです。

なんと用意周到なこと!

この辺りでも戦いに対しての温度差が、かなりあるような気がします。

錦の御旗は、ものすごい威力を発揮し、徳川方についていた諸藩が、一様に動揺を隠せず、薩摩側に

寝返る者が続出したということです。

そして、錦の御旗が掲げられたことは、徳川慶喜を失意のどん底に突き落とすことになるのです。

慶喜は、新政府でもいいポジションで政治に参画しようと思っていたようなのです。

ところが、朝敵となってしまったために、その望みも断たれてしまったのです。

そして、慶喜は、大坂城を脱出して、江戸に戻ってしまいます。

戦う徳川兵たちを見捨ててしまったのです。

この辺りのことも『西郷どん』(せごどん)や『八重の桜』で描かれていました。

特に『八重の桜』では、松平容保も同行していたため、会津藩の神保修理が敗戦の責任を取り、切腹するという回まであったほどでした。

それほど、大変な出来事だったのです。

慶喜という総大将を失ったことで、徳川軍は、総崩れになり、あんなに戦力に差があったのに、鳥羽・伏見の戦いは、徳川軍が大敗することで、幕を閉じるのでした。

これで、慶喜が朝敵となり、歴史の表舞台から完全に姿を消すことになります。

そんな慶喜の名誉を回復するために動いたのが、渋沢栄一!




NHK『歴史探偵』「謎の将軍 徳川慶喜」感想・まとめ

歴史上の大きな事件である大政奉還と鳥羽・伏見の戦い。

その裏には、いろいろな思惑や事情や背景があったのですね。

大河ドラマ『青天を衝け』でも、今後、慶喜が将軍になり、この大政奉還と鳥羽・伏見の戦いへと進んでいきます。

徳川慶喜は、現在でもその評価は、分かれますが、歴史上の大きな事件を担ったすごい人だったんですね。

渋沢栄一は、ちょうどその頃、パリ万博に行っているので、ドラマでどんな描かれ方をするのかが楽しみですね。

『夢昔会筆記』という渋沢栄一が手がけた回顧録。そこには、慶喜との堅い絆があるんだなあと感じました。

さて、次回の『歴史探偵』の放送予定は、6月23日(水)。今度は、時代をぐっと遡って、人気の戦国時代です。タイトルは『細かすぎ毛利元就』。またまた面白そうで楽しみですね!




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