五代友厚(五代才助)とは、どんな人? 子孫・死因・大阪での功績は? 朝ドラ・大河でディーンさんが再登板 渋沢栄一との関係は?

青天を衝け 大河ドラマ

こんにちは

大河ドラマ『青天を衝け』では、今まで少し姿を見せただけだった五代友厚(五代才助)が活躍し始めましたね。

ディーン・フジオカさん演じる五代友厚を首を長〜くして、待っておられた方も多いのではないでしょうか?

東の渋沢、西の五代と言われたように、大河ドラマ『青天を衝け』では、はずせない役どころですね。

それでは、五代友厚とは、どんな人だったのでしょうか?

五代友厚とはどんな人? 渋沢栄一との関係は? 西郷隆盛、坂本龍馬とも交流が。

五代友厚(五代才助)は、天保6(1836)年、薩摩国鹿児島城下にて生まれました。

五代友厚誕生地は、鹿児島市によって、市民や観光に来た人々の憩いの場所として、多目的広場として整備されています。

渋沢栄一よりも4歳年上になるこの世代は、まさに黄金世代。坂本龍馬や土方歳三、また同じ薩摩出身としては、小松帯刀や篤姫など、日本史の中でも大人気で、大活躍した人がいる世代なんですね。

五代友厚は、五代直左衛門秀尭(ひでたか)という人の次男です。この父の五代直左衛門秀尭(ひでたか)という人は、「三国名勝図絵」というものを執筆、記録した奉行として知られています。「三国名勝図絵」とは、江戸時代の後期に薩摩藩が領内の地誌名所を記した文書で、薩摩国、大隅国、そして日向国の一部を含んだものとなっています。五代直左衛門秀尭(ひでたか)は、島津斉彬に仕える上級藩士でした。

そんな環境の下、五代友厚は、幼い頃から、地図に親しみ、英名の誉れ高い秀才として、過ごします。

五代友厚は、明治になってから名乗った名前で、幼名は、徳助。元服時の名前は、才助です。

前回の朝ドラ『あさが来た』では、五代友厚、今回の『青天を衝け』では、五代才助。五代友厚と五代才助と、違う名前で呼ばれていますが、同じ人なんですよね。

この才助という名前は、当時の薩摩藩主だった島津斉彬が、五代友厚の才能を高く評価して名づけたものだそうです。かなり期待された人材だったのですね。

安政4(1857)年、長崎海軍伝習所へと遊学します。そこでは、測量や砲術や蘭学、またオランダ士官から航海術も学びました。

文久2(1862)年、幕府艦、千歳丸に水夫として乗船して、上海へと渡航します。ここで、薩摩藩のために蒸気船の購入の交渉を行います。この時に、高杉晋作とも出会っています。

文久2(1863)年、7月に生麦事件がきっかけで起こった薩英戦争では、イギリス海軍の捕虜となりますが、脱出。この時に、イギリスの捕虜になったと言う悪評のため、薩摩には、帰れず、しばらく逃亡生活を送っていました。

五代才助の大河ドラマ『青天を衝け』の初登場シーンが第13回の放送で出てきました。五代才助は、熊谷宿の茶屋で碁を打っていましたが、この時期のことだと思われます。その後、帰国を許されます。

慶応元(1865)年、29歳の時に、藩命を受けて、薩摩からヨーロッパへと渡ります。藩お目付の新納刑部(にいろぎょうぶ)、寺島宗則、五代才助が視察係として、通訳一名と十五名の留学生とともに使節団をイギリスに派遣していました。ベルギーのブリュッセルにて、モンブランと貿易商社設立契約に調印しますが、結果的には失敗に終わります。五代たちは、1年間を掛けて、ヨーロッパ各地を歴訪し、紡績機械の買い付けなどにも尽力し、翌年の5月に帰国します。

この時期のことが、第19回『勘定組頭渋沢篤大夫』の回で描かれていましたね。

五代才助に大久保一蔵(大久保利通)がイギリスから武器を買いたがっていると言う話を持ちかけるシーンがありましたね。親交のあったグラバーとの関係にもついて語られていましたね。

薩摩藩御用人外国掛となった才助は、長崎で外国領事や商人と組んで、食料や弾薬、武器などを長州や他の藩に売り始めます。

慶応4(1868)年の戊辰戦争では、西郷隆盛や大久保利通らと倒幕のために活躍します。

海外に渡航した五代友厚は、「大阪を東洋のマンチェスターにしたい」という夢がありました。明治維新後は、その夢に邁進していきます。




五代友厚と大阪 功績は?

明治元(1868)年、明治新政府の参与職外国事務局判事となった五代友厚は、大阪に赴任します。

そして、造幣寮(現在の造幣局)を誘致。香港の造幣工場から機械を一式を買い付けます。初代大阪税関長となります。

ところが翌年、会計局権判事に任命され、横浜へ転勤。

この時、大阪の商人たちは、五代の横浜行きをなんとかやめさせようと政府に訴えたほど、五代は、大阪には、なくてはならない人になっていました。

そして、五代は、2ヶ月で退官することを決意。大阪に戻ります。官から民へ下野するのです。この時、33歳でした。ここから、五代友厚の実業家人生がどんどん拓けていきます。

その後の五代友厚の活躍は、めざましく、鉱山の管理事務を行う弘成館を設立、福島・半田銀山の経営の開始、大阪活版所の設立の要請、国産藍の製造を行う朝陽館を設立。

また、大阪株式取引所(現在の大阪取引所)、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)などを設立。

さらには、阪堺鉄道(現在の南海電気鉄道)を開業と、さまざまな分野で大阪の経済を発展させていくことになります。

また、五代友厚がすごいのは、数々の功績だけではなく、人との恩義にも厚かったこと。

特に五代友厚を支援してくれた小松帯刀の亡き後は、その妻子を邸に住まわせたりと、面倒を見ています。




五代友厚の死因は?

この五代友厚ですが、残念ながら、49歳という若さで亡くなってしまいます。

明治18(1885)年のことでした。

当時からすると、そこまで早死にというわけでもないかもしれませんが、同じく、官から民へと活躍した渋沢栄一が91歳まで生きたことを思うと、惜しまれますね。

死因は、ドラマのイメージからは、ちょっと意外なのですが、糖尿病を患っていたようです。

若い頃から、国内外で活躍し、多忙を極めた五代友厚は、不摂生な生活もあり、高血圧性心臓病を発症していました。医師からは、禁酒禁煙も言われていたようで、お酒も控えていたとのことです。

東京の築地の別荘で亡くなったのですが、葬儀は、五代友厚の遺言により、大阪で執り行われています。五代友厚の葬儀には、4000人を超える弔問客が集まったと言われています。五代友厚の大阪への功績、そして、人望がいかに大きかったのかがわかりますね。

五代友厚は、亡くなる約半年前に中之島に邸を構えました。その五代友厚邸のあった場所は、現在は、日本銀行大阪支店が建っています。

五代友厚のお墓は、大阪市阿倍野区にあります。阿倍野区民センターの隣の大阪市設南霊園というところで、大阪メトロ谷町線阿倍野駅のすぐそばです。

大阪での五代友厚の像は、3つあります。3つもあるなんて、その功績の大きさをうかがわせますね。まず、一つは、大阪取引所の前、もう一つは、光世証券の本店のエントランス前、そして大阪商工会議所の前にあります。

また出身地の鹿児島の泉公園にも像があります。

ディーン・フジオカさんが演じているということで、かなりイケメンのイメージが強い五代友厚ではありますが、実際の「五代様」もかなりのイケメンだったようで、銅像もかっこいいものが多いです。

そして、五代友厚の没後、大阪は、世界に誇る近代的な産業都市へとの変貌を遂げ、五代の夢である『東洋のマンチェスター』と呼ばれるようになったのです。




五代友厚と朝ドラ『あさが来た』 広岡浅子との関係は?

五代友厚といえば、あのNHK朝ドラの『あさが来た』でも登場した、あの「五代様」ですよね。爽やかで、当時、大人気だったことを覚えています。

五代友厚は、例えば、西郷隆盛や坂本龍馬なんかと比べて、そんなにドラマで取り上げられることもなさそうなので、もう会うことがないのかなと思っていたら、なんと、今回、重要な役での登場、しかも演じるのが、再びディーン・フジオカさんということで、これは、もうNHKナイスって感じですよね。

NHK朝ドラ『あさが来た』は、明治から大正にかけて活躍した女性実業家の広岡浅子をモデルに、ヒロイン、白岡あさの活躍を描いた朝ドラです。

広岡浅子は、江戸時代の末期、嘉永2(1849)年に、京都の豪商である小石川三井家の三井高益の四女として生まれました。大阪の豪商の鹿島屋へと嫁ぎ、銀行や生命保険会社や女子大学も創設したという女性実業家で教育者です。

五代友厚と広岡浅子の関係ですが、五代友厚が大阪株式取引所を設立し、この大阪株式取引所の肝煎(理事)に広岡浅子の夫の信五郎が就任します。そんな縁から、二人は、大阪経済の発展のために、いろいろな議論を重ねたのかもしれませんね。

なお、『あさが来た』では、白岡あさ(広岡浅子)を波瑠さん、夫の白岡新次郎(広岡信五郎)を玉木宏さん、また、実家の三井家は、今井家という名前で、姉一人、弟一人という三人きょうだいの設定でした。あさのお姉さんの、はつ は、宮崎あおいさんでした。

今、観ても、めちゃくちゃ、豪華キャストですよね〜。

ちなみに渋沢栄一役のキャストは誰だったかいうと、三宅裕司さんでした。

歴史上の人物の登場するドラマは、描かれ方や、登場する年代によって、同じ人物でも、タイプの異なる俳優さんが演じられるところも、また面白いですよね。




五代友厚を演じるのは、ディーン・フジオカさん

さて、五代友厚を演じるディーン・フジオカさんは、1980年 福島県生まれです。本名は、藤岡竜雄さんです。妹は、元チェキッ娘の藤岡麻美さん。ジュノン・スーパー・ボーイコンテストの最終選考にも残ったことがあるディーン・フジオカさん、これは、妹の麻美さんが勝手に応募していたというエピソードが残っているようですね。

藤岡麻美さんも台湾での活動をされており、ご兄妹揃って、グローバルな活躍をされていますね。このグローバルさは、五代友厚に通ずるものがあるなあと思いました。

しかも五代友厚の武器のひとつに英語力があります。このあたりも語学堪能なディーン・フジオカさんのイメージとも被りますね、

ディーン・フジオカさんは、かつて、朝ドラ『あさが来た』の出演の際に、五代友厚のことを「スケールの大きな人物」と語っておられました。スケールの大きさが五代の最大の魅力であり、自分のためだけではなく、日本のためや後輩たちのために生きた男という印象を持たれたそうです。

そして、この度、大河ドラマ『青天を衝け』での五代友厚は、『あさが来た』の五代友厚のイメージを踏襲するのではなく、「意外とワイルド」だとのことです。

ディーン・フジオカさんが朝ドラ『あさが来た』で五代友厚を演じられたのは、2015年のこと。その後もいろいろな作品で、活躍し続けておられるディーン・フジオカさん。6年ぶりの大役では、また違った五代友厚像を見せてくれるのでしょうね。本当に楽しみです。




五代友厚の子孫・妻・子供は?

五代友厚の最初の妻は、坂本広子と言います。慶応3(1867)年に結婚し、娘をもうけるものちに離婚をしています。

次の妻は、五代豊子という方です。出身は、奈良県の田原本町というところです。

五代友厚と豊子が結婚したのは、明治3年のこと。明治維新後の話なのですね。

国内外を飛びまわった五代友厚を支えられたということで、大変な苦労があったのではないでしょうか。

五代友厚の残した借金は、100億とも言われていて、遺族とともに18年の歳月をかけて、整理されたそうです。五代友厚は、自らを省みずに、私財を投じて、世の中のために貢献したのですね。

孫には、野村正二郎、杉村正三郎という兄弟もいます。兄弟の母方の祖父にあたるのが五代友厚です。兄弟の母親である久子は、五代友厚の四女で、杉村倉庫の創業者である杉村正太郎に嫁ぎました。兄弟の二人ともサッカーの選手でもあり、野村家に養子に入った野村正二郎は、科学者であり、大学教授、杉村正三郎は、阪急電鉄常務を務めました。

また子孫には、五代富文さんという宇宙工学者の方がおられます。五代友厚は、五代富文さんの曽祖父に当たるとのことです。




三浦春馬さんも演じた五代友厚 映画「天外者」は、五代友厚プロジェクト

幕末に生まれ、明治に活躍した五代友厚ですが、幕末のドンパチというよりは、明治時代の実業家ということもあり、ドラマや映画、小説でも派手な登場をすることは、あまりないようです。

そんな中で、五代友厚が登場した映像作品として、有名なのが『天外者』(てんがらもん)という作品です。

天外者とは、鹿児島の方言で、「すごい才能の持ち主」という意味があります。

映画のノベライズ本やDVD、ブルーレイも発売されていて、観ることができますよ。

この作品は、2013年に『五代友厚プロジェクト』との一環として市民の有志の方々によって、立ち上げられ、制作されました。2019年に撮影が終了し、2020年12月に公開されました。

五代友厚役は、三浦春馬さん、坂本龍馬を三浦翔平さん、岩崎弥太郎を西川貴教さんが演じられています。他にもたくさんの有名な俳優さんも出演されて第94回『キネマ旬報ベスト・テン』の読者選出日本映画ベスト・テン1位に輝き、同・読者選出日本映画監督賞や第13回東京新聞映画賞も受賞されています。




大河ドラマ『青天を衝け』での五代友厚

大河ドラマ『青天を衝け』で、今後も五代友厚は、たくさん登場すると思います。渋沢栄一と共通点も多い五代友厚。

これから、渋沢栄一と、どう絡んでいくのか、どんな接点を持つのか、とても楽しみですね。

 




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